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「――先生っ!! ご無事ですか!!」
『合図』の言葉を確認し、警察官たちと一緒に地下室に突入したぼくと億良が見つけたのは。
真っ暗の画面を見つめたまま虚脱しているびしょ濡れの万世先生と。床で一人狂ったようにのたうち回っている依頼人の男の姿だった。
*
浦部の身柄の確保と後のことを呼んでいた警察に任せ、二人と一匹で帰路につく。
病院は嫌です、と先生が頑なに拒否したので、ひとまず探偵舎に早めに連れて帰ることにした。打撲傷、手首と足首の痕が痛々しい。激しく消耗している。無理もない。歩くのも一苦労な様子なので、車までおぶって運んで差し上げる。いつもはこういうことは嫌がるのに――今日はおとなしく従った。背中にとりついておぎゃあと泣きながら石になっていく妖怪みたいなスタイルだ。でも先生はとても静かだし重くもない。
「――七五三君。億良。……僕の指示に気付いて、辿りついて下さって有難うございました」
「メモを見て気付くことが出来て良かったです。指示が来た時はびっくりしましたよ。真っ先に気付いたのは億良でしたけど。メモの文頭を肉球でぺちぺち叩いて教えてくれたんです」
億良が足下で「なーぅ」と得意げに鳴いてみせた。よく手入れされたビロードの毛並みがつやつやと夕日に輝いている。
先生が依頼人と出かける前に言い残していったぼくらへの要望事項。
『今から少々頭を使ってもらいますよ』と告げたのがキーだ。頭――つまり、文頭を読めという指示。するとこうだ。
二枚目の追加メモも、変則的だがこう読める。
偽の依頼。追跡しろ。合図は『どくどく』。
つまり先生はぼくらに、この依頼が偽の依頼であること。自分達が出発した後でぼくらにそれを追跡してほしいこと。そして『どくどく』という合図が聞こえたら突入してほしいことを秘密裡に伝えていたのだ。
合図の言葉は、ぼくらに敵が何らかの薬物や毒物を用いる人物だとそれとなく示唆していたんだろう。
「ああすれば、依頼人に気付かれずに君達にお伝えできますから」
「でも、向こうも凝視してましたよね。文頭を読む仕掛けに気付かれなくて何よりでした」
「ええ。一見さんでは読めない漢字をいくつか混ぜ込みましたから。二月 『五夢』君。『都九見』さん。そして『七五三』町。読み方を知らない方には暗号と気付かれにくいはずです」
違和感はあった。先生はいつも五夢のことを『二月君』と呼んでいたから。……ぼくのこともいつか弾みで『千君』と呼んで頂きたく思う。
「原始的な手段をとったのは、僕がすまーとふぉんを持っていることに勘付かれたくなかったのもあります」
そう言うと、先生は着ていた黒いアシンメトリックな装束の腿の裏辺りの布をごそごそと探り、自分のスマートフォンを取り出した。
画面に、ぼく宛の長い通話履歴が残っている。
そう。先生は探偵舎を出発してから、ずっと携帯電話を通話状態にしたまま、リアルタイムの音声をぼく達に届けていたのだ。
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