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劣等感。
あまり想定していなかった言葉が飛んできたので驚く。私は丸眼鏡の奥の瞳を細めながら、うんうんそれで? と相槌を打った。
「羨ましくて、妬ましいんです。
七十刈先生のように『これが自分だ』って顔をして伸び伸びと生きている方が。自分の才能を自覚して、思う存分活用して、それが世の中にもある程度認められて。在りたい姿と、現在の姿が完全に一致してるじゃありませんか。
――私は、そうではないので」
苦々しげに呟いた。
いつもの業界用語はすっかりなりを潜めている。彼も社会の中である程度無理をしながら、自分自身の形を作り上げているのかもしれない。あのカタカナ語の氾濫は彼なりの防衛機構なのかな。
人間らしくて、とてもいいじゃないか。
「時々感じてしまうんですよ。今の自分は本当の自分じゃない。あるべき姿があるんじゃないかって。勿論今いる恒河社だって、文章に携わる仕事が出来て充実はしてるんですけどね。大きな仕事も任せられていますし。
でも、居るべき場所は此処じゃない、やるべきことはこれじゃない、っていうもやもやした思いがずっとこびりついているんですよ。在りたい姿と自分自身とが一致するまでは、きっといつまでも満たされることがない。まるで呪いですよ」
「それは――職業の話? それとももっと大きな……例えば、人生の目標という意味かい?」
「自己実現というやつでしょうね」
ホールのお姉さんにグラスの水を二つ頼みながら、続きを促す。
八壁君の目が、此処ではない遠くを眺めている。彼には――自分自身の夢の形が、在るべき姿が視えているのだろうか。
「自分の才能はこんなものじゃない。自分の存在はこんなものじゃない。もっとやれる。もっと凄いものに成れる。もっと凄いものが創れる。褒められたい。認められたい。本当の自分に成りたい。あるべき姿に近付きたい。そんなどうしようもない叫びにも似た思いが、欲望が、渇望が、腹の底からぐつぐつとうるさく湧き上がってくるんですよ。お腹を空かせた赤ん坊の泣き声みたいに」
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