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幕間「かみにまつわる」その一 ~苦髪楽爪~
九月下旬のある夜。時刻は午前一時頃。
夏が過ぎ去っても、名残りでまだ少し寝苦しい。なんとなく暑さで目が覚めてしまったぼく――七五三 千は冷たい飲み物でも飲もうかと台所へ向かった。
時間が時間だけあって既に人工的な明かりは全くなく、探偵舎の建物内は完全なる暗闇に沈み込んでいる。けれどこんな時刻に煌々と電灯を点けるのも気が引けて、ぼくは記憶と勘を頼りに板張りの長い廊下を手探りで進むことにした。ここに住んで五か月は経つので、大体の位置関係は把握出来ている。
台所は廊下の右奥。応接間を抜けた先だ。
冷蔵庫でいい感じに冷えているであろう水出し緑茶のことを思い浮かべながら忍び足で部屋を通り抜けようとした時、ぼくは気付いてしまった。
――応接間の窓の傍に佇む、人の気配。
心臓がどくんと跳ね上がる。
障子の穴から差し込む蒼白い月明かりが、ちかりと金属の光を反射した。鋭角的なシルエットは小振りな刃物のそれだ。
人影が月光に照らされて浮かび上がる。首筋にべったりと貼りついた濡れた髪。ボタンを掛け違えた黒づくめの部屋着。
握りしめた小刀の切っ先を逆手で自分の頸部へと宛てがいながら。
「あ、…………えっ…………!?」
ここの主――万世先生が緩慢に眼球を動かして、やっとぼくの姿を捉えた。
数多町七十刈探偵舎
幕間「かみにまつわる」その一
『苦髪楽爪』
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