幕間「かみにまつわる」その一 ~苦髪楽爪~

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「せんせぇ駄目ェェェェ――――ッ!!!」 「…………!」  血の気が一気に引く。  何が起こっているのか呑み込めない。  先生は一体何を? 刃の先を自分に向けて?  目の前がざわりと真っ白になって『死』の文字が脳内で激しく明滅を繰り返す。気が付いたらぼくはイヤアアアと奇声を上げながら先生に向かって一目散に飛びかかっていた。  物騒な小刀を手放して頂くべく右手首を掴んだ途端、ずるりと床に敷いてあった何かに足を取られ、二人折り重なってその場に勢いよくひっくり返る。何に滑ったんだ? よく見えない。それでもぼくは止まるわけにはいかなかった。恐慌状態に陥りながらも、震える手でぼくの下の先生の動きを押さえ込む。肺を絞るようにしてようやく息を吐いた。止めなくては。止めなくては。止めなくては。先生を。先生が。死んじゃう。先生が死んでしまったらぼくは。 「――痛いです。……離してください」  この期に及んでそんなことを言う。何をおっしゃっているのかよく分からない。離してしまったら一巻の終わりだ。先生が死んでしまう。縋るようになりふり構わず骨ばった手首を掴む。指先がじんわりと痺れた。 「離すわけにはっ……いきません……先生が、死んじゃう……」 「待、ちなさい。違います。……落ち着いて、しめくん」 「嫌です! 待てませんし落ち着いてなんかいられません……!」  涙声になっているのが自分でも分かる。混乱しすぎて何が何だか分からないけれど、とにかく必死だった。偶然目が覚めて良かった。先生はこんなことするようなお人じゃない。なら、こうなっているのは、近付いた人を不幸に追いやるぼくの『呪われた体質』の影響に違いない。とうとう呪いの影響が身近な先生に及んでしまったのか? 絶望感に心が黒く塗りつぶされていく。ぼくは――もう自分の所為で大切な人を失いたくない。 「――嫌っ。先生。万世(まよ)先生。どうしてですか。嫌だ。ですか。早まらないで……死なないで……」  カラン、と先生の手からやっと得物が零れ落ちる。 「――ですから」  先生がス、と頭を後ろに引いた。  次の瞬間、嫌な音と共に鼻の骨に鈍い衝撃が走る。頭突きされたのだと気付く頃には、先生はひるむぼくの下からごろりと転がり抜けて、姿勢と着衣の乱れを整えていた。 「聞く耳を持て。状況を見ろ。思い込みで動くな。……勘違いだと言っているでしょう。誰が死ぬものですか」  じんじん痛む鼻を押さえながらうずくまる。鼻血は出ていないし骨も折れていなさそうなので大分手加減してくれたのかもしれないけど、地味に痛い。しかしながら突然の痛みのお陰で、冷静な思考がにわかに舞い戻ってきた。 「……うぶっ。痛いよ、先生……」 「正気に戻りましたか。二月(ふたつき)君に簡単な護身術を教わっていて正解でした。まさか一番はじめに自分の助手に試す羽目になるとは思いませんでしたが」 「うう……勘違いって? じゃあ先生はこんな時間に一体何を」  漆塗りの赤い鞘に拾い上げた小刀を納めると、先生はちょいちょいと足下の地面に広げられた古い新聞紙と――まばらに散らばったくすんだ髪の毛を指し示した。 「……散髪です。邪魔な髪を、切ろうと思いまして」
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