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……なるほど。状況は理解した。
ぼくはとんでもない勘違いをしてしまったらしい。先生に平謝りしながらぼくの手の形が赤くくっきりと残ってしまった手首をさすり続ける。申し訳ないことこの上ない。ただ、こうなってしまった責任の一端は先生にもあると思う。
「いやいやいや――あんなの見たら誰だって勘違いしますよ!」
まず状況が色々おかしい。
「どうしてこんな夜中に散髪を……?」
「……先程まで暗号を解いていたのですが、伸びてきた髪が邪魔でどうも見えづらく感じたので、切ろうと思い立ったんです。今しがた」
「真っ暗じゃないですか! 危ないですよ」
「暗い……ですか? 暗がりには慣れているので気付きませんでした」
月明かりで十分明るいですよ、と窓の外の膨れた半月を見上げる。はるか古の賢人達は、蛍の光や雪に反射する仄明かりで勉学に励んだという話すらある。昔の人みたいなレトロな暮らしをしてきた万世先生にとってはごく普通のことなのかもしれない。
「しかもどうして小刀!? びっくりしたじゃないですか。今日日、時代劇か任侠ものくらいでしか見ないですよ」
「……切れ味が良いんです。便利ですよ」
新聞紙に刃を宛がう。軽く触れただけでスゥーと淀みなく切れ込みが走り、あっという間に一面記事がきれいに真っ二つになった。なるほど、優れた刃物の証左だ。紙でも髪でもばさばさ切れることだろう。さっき揉み合いになった時、先生にもぼくにも怪我がなくて本当に良かった――ぼくはあらためて胸を撫で下ろす。危うく大惨事になるところだ。
「とにかく。危なっかしくて見ていられないのでぼくがやります。やらせてください」
「――得意なんですか?」
「いえ。正直自分のくらいしかカットの経験はありませんが、ぼく器用ですし、スマホで色々調べることも出来るので。先生がご自分で闇雲にざくざく切るよりは、マシに仕上がると思いますよ」
鬱陶しく思うたびに、時々ご自分でこうして切っていたのかもしれない。暗闇で、鏡も見ずに、思うままに。ゆえに、元々の癖毛も手伝って長さの不揃いなぼさぼさ頭が出来上がってしまうのだろう。先生にまつわる小謎の一つが解けてしまった。心の『先生メモ』にそっと記しておく。
『謎』すなわち『儺詛』――つまり分かち難く複雑に入り組んだ呪いと見做して、呪術的なアプローチで解き明かすことに関しては天才的な力を発揮する万世先生だけれど、能力をそこに集中させ過ぎているのか、それ以外のことに関してはさっぱりでいらっしゃるのだ。生活していく上での大切な部分がスコンと抜け落ちている。
だから謎を解く意外の部分で先生を支えてお役に立つのが、助手であるぼくの役目で、今の存在意義に違いなかった。
先生は、ぼくが居ないと駄目な方なのだ。
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