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小刀は流石に現代人としてどうかと思ったので、棚から大きな銀色のハサミと霧吹きをとってきた。準備万端だ。
湿らせた髪の間にハサミの刃をそっと差し入れ、頭皮を傷つけないよう慎重に滑らせる。少しずつ丁寧に、邪魔になりそうな箇所を切り落としていく。先程スマートフォンで軽く調べただけの見よう見真似ではあるけれど。
ぎぃぎぃ鳴る椅子に腰かけ、首元に大判の布を巻かれた先生は身動ぎ一つせずじっとしている。ぼくのことを信じて、全て委ねてくれているらしい。不謹慎ながらも、濃灰毛をした大人しい動物のトリミングをしているような感覚になってくる。
「……伸びるんですよね」
濡れてうねった髪の先から伝う滴をじっと見つめながら、聡明な先生にしては珍しくそんな当たり前のことを言う。
「そりゃあ髪は伸びますよ。ぼくのだって伸びます。生きていますから」
髪が伸びるのは、時を刻みながら生きていることの証だ。まぁ生きていなくとも愉快に髪を伸ばしまくる呪われたお人形もいるけれど。探偵舎の倉庫の奥に何体か。厳重にお札を貼られて。
「……つくづく不便なものですね。生きていくのに、物を食べて、眠って、時々身なりを整えなくてはいけないというのは」
「だって先生は人間ですから。謎に夢中になるのもいいですけど、美味しい物を食べて、疲れたらしっかり休んで、身ぎれいにしましょうね」
壁際の充電器のコードで繋がれたまま沈黙している、AIアシスタントロボットのREM君が視界の隅に入った。そうとも。ぼくらはロボットでもなければ人形でもない。ましてや死体でもない。今を生きている人間だ。だから活動しただけ髪だって伸びるし、時としてそれを切る必要がある。何を今更。
「そういうところは、ぼくもちゃんとお手伝いしますから」
丸っこい頭の形を辿り、うねうねした灰黒色の髪を指で梳き、伸びた部分を切って顕わになった骨っぽい首のラインに目を落とす。
ぼくがここに住み始めて早五ヶ月。テレビの情報番組で取り上げられていた最新の研究によると、人の細胞というものは毎日摂取している食事をベースにして半年ごとに生まれ変わっているのだと言う。
ということは、ぼくの作ったごはんが、そのまま今の先生の殆どの血となり肉となり、骨や髪の毛となり、真実を鮮やかに見抜く特異な脳細胞になっていると言っても過言じゃない。
ぼくが後ろ暗い打算と、真心とを込めて丹念に生かしている先生が、巡り巡っていつか未来のぼくを生かしてくれるのだ。うまく形容出来ないけれど、自分の手で自分を救ってくれる神様の偶像を形作っているような気分だ。
そう考えると、ふつふつと胸の奥に感慨めいたものがこみ上げてきて、たまらなくなってきた。精神が妙に昂ぶってしまっているのかもしれない。深夜のテンションというやつだ。
「あの……」
「あっ。はい、なんでしょう?」
「少し――くすぐったいです。七五三君」
「あぁすみません。気が付かなくて」
ぴくりと身を強張らせて肩越しにこちらを見ている。思考を断ち切るようにうなじについた毛を払い落とすと、髪の間にハサミを再び差し入れ、うねる先端をまたしゃくんと切り落とした。
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