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「君が万世君の髪を?」
討論が一区切りついたので資料を片付けながら世間話をしていたら、なんとなくその場の流れで、万世先生の髪の毛をぼくがカットした話題になった。あの夜の出来事をかいつまんで語り聞かせる。
「へぇ、快挙じゃないか。よく許したねぇ、彼が」
「助手としての厚い信頼ですよ。嫌われてるツグセンとは違います」
「あっはっは。誰が嫌われてるって? あれでいて万世君は私のこと大好きなんだけどなぁ。嫌よ嫌よも好きのうち、と言うじゃない」
「いつも避けられてるじゃないですか」
「私がこんなに格好良くて頭も良くて性格も良くて社会的地位も兼ね備えているものだから、きっと恥ずかしがっているんだね。うーん分かるよ」
「いや、それ絶対違いますから」
どこに根拠があるのかさっぱり分からないけれど、自信に満ちた表情で楽しそうに高笑いしている。相変わらず自己肯定感の権化のような人だ。万世先生がこの場にいたら、全身の毛を逆立てる勢いで嫌がっていたに違いない。
「――ところでツグセン、以前万世先生とご一緒に住んでたんですよね? その頃は先生の髪ってどうしてたんですか。まさかツグセンが整えていたわけじゃないですよね」
「おや、知りたい? 私しか知らない昔の万世君情報、どうしても知りたい? どうしようかなぁ、んー?」
ふっふっふと人を食ったような笑みを浮かべてにじり寄ってくる。とてつもなく鬱陶しいし、調子が狂いそうになるし、あくまで優位に立とうとする相手側の姿勢に内心ちょっとイラッとする。
先生と准教授は十年前からの古い馴染みで、複雑な事情があって暫く同居していたと聞いていた。たこパの場で最初に聞かされた時はさすがに衝撃的だったけれど、今のぼくは至極冷静だ。
年月の長さは、必ずしも絆の深さと比例しているわけじゃないとぼくは思う。勿論時間経過に伴う情報量の違いはあれど、結局は当人同士の相性次第なんじゃないか。例えばロミオとジュリエットだって、出逢って惹かれて死に至るまでたった五日間だ。お互いのことをよく知らずとも、たった数日で運命を共にするほど深い関係を築くことだって出来るのだ、人と人は。
今、万世先生の一番お傍にいるのはこのぼくだ。
狼狽えず、惑わされず、堂々としていればいい。
「やっぱり結構です。あまりにツグセンがウザいので聞く気が失せました」
「おや。師匠の性質をよく分かっているじゃないか、流石は七五三君。聞く気を失くしたと聞いたら、逆に話したくなってしまうね♪」
この天邪鬼! と罵ると、銀縁の伊達眼鏡の向こうの目が嬉しそうにとろりと細められた。明らかに喜んでいる。まったくこの大人は――豊富な知識量や閃く知性は尊敬に値するというのに、癖のありすぎる性格が全てを台無しにしている気がする。
「さぁて、お待ちかね万世君情報。
彼は昔から自分でこそこそ髪を切っていたよ。切っているところすら見せなかったし、濫りに触れさせることも滅多にしなかった。あまりにも無造作すぎて野生児みたいだから見かねた私が手を入れようとした時も、ひどく暴れられてね。結局失敗してしまったよ。まぁ彼にとっては死活問題だからねぇ」
「死活問題、ですか?」
「そう」
トリミングを全力で嫌がる黒い毛玉のような先生と、それを追いかける若かりし頃のツグセンを想像する。じわじわくる光景だ。そういえば先生が「髪や爪などの体の一部が敵の手に渡って、術の媒介にされては困る」と解説してくださったのを思い出す。
それ以外に、何か重要な意味付けがあるのだろうか。
「さぁて。せっかくの機会だから呪詛学の補講といこうか、愛弟子よ。古くから――『髪』というものは、呪術的に特別な意味を持っていたのさ」
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