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「この建物だ。しかしお前さん――本当にここへたった一匹で乗り込むのか? 相手はヤベェ人間だぜ。遠くからでも、血の匂いが分かったからな。ありゃあ猫の血だ。きっと武器を持ってやがる。返り討ちにされるかもしれないぜ」
「いや、行ってくる。案内してくれて有難う。もし私が帰ってこなかった時は、イチマルさんに伝えてくれ」
そう言い残して私は割れた窓の隙間から廃工場へ潜入し、コンクリートの床に降り立つ。このぞっとするような廃墟の中で、沢山の同胞たちが助けを待っているかもしれないというのに、尻込みをしている場合ではない。
砂埃の上に人間の靴のあと。そしてうっすらと嫌なにおいが漂ってくる。尖った耳をそばだてて気配を窺うと、奥のほうからか細い声が聞こえた気がした。猫は四十メートル先の音も聞き分けることが出来るが、私はさらに特別な訓練を積んでいるのだ。
――けて。
――助けて。
もしかしたら探している猫かもしれない。そう思った私は一気に廊下を駆け抜け、声のするほうへと向かった。廊下を抜けたところに扉が一つ。ぼうっと薄明りが漏れている。
「――ここか!」
扉の隙間から首と右足を差し込む。
「助けて……助けてよぉ……」
部屋の奥に置かれた金属の台の上。体を布ベルト巻きにされて拘束されている、コラット種の猫が一匹――灰白色の毛並みに、黄色い瞳。少し気弱そうな表情。まさしくあの夫婦が手にしていた写真と同じ姿がそこにあった。
「ツクモだな」
「え、誰? ねえ、おねがい助けて!」
ツクモは全く体が動かせないのか、悲痛な目だけをこちらに向ける。耳を伏せ、随分と消耗している様子だ。怖い目に遭っただろうし、捕まっている間ろくに物も食べられなかったのだろう。平たく拘束されたまま手足をがたがたと震わせている。
「勿論だ。私は君を助ける為にここへ来た。怪我はないか?」
「……うん」
「ところで、他の者は?」
「最初はぼく以外にもたくさんいたんだ……知ってる子もいた。でも、みんな、みんな……殺されちゃった……最後に残ったのがぼくなんだ。でももうすぐアイツが帰ってきたら殺されちゃう。だから早く助けて!」
繋がれた拘束を解く方法を瞬時に脳内で幾通りかシミュレーションし、最善と思われる策を選び取る。大丈夫、私は『探偵』だ。しっかりと思考し、行動すれば必ず答えは導けるはずなのだ。
しかし、爪と牙を駆使して布ベルトを取り去ろうとしているさ中、工場の入り口の重い鉄扉が開く気配がした。つづいてコツ、コツと人間の足音がこちらへ近づいてくる。
ツクモが言っていた『アイツ』――『猫獲り』がアジトに帰ってきてしまったのだろう。くっ、あともう少しなのに。
「ねえ、まだ? この足音……アイツだ。アイツが来るよ……君まで殺されちゃう。いやだ、怖い。怖いよ」
「大丈夫だ、私を、信じろ――!」
コツ、コツ、コツ、コツ。足音が大きくなる。あと少し。あと少しなのに。必死に前足でベルトの端をおさえ、金具を牙と爪でかちゃかちゃと探る。うまくスイッチを押すことが出来たのかパチンと音を立てて拘束がはじける。
「よし、外れた――」
ツクモの四肢が自由になったのとほぼ同時に、足音が私たちの居る部屋の前でピタ、と止んだ。
奴が今、扉の、すぐ前に居る。
(――やるしかあるまい)
室内を見回す。扉には鍵がついていないようだ。内側から封鎖はできない。部屋の照明のスイッチの位置を確かめる。瞬時に明かりを落とし、暗転に乗じて顏に飛びかかれば、隙をついてツクモを逃がすことが出来るかもしれない。相手は人間だ。
彼らの目は暗がりにすぐには順応出来ないようだが、我々猫の目は暗闇の中でもはっきりと鮮明にものが見えるのだ。勝機はある。
ガチャ、とドアノブを握る気配。
その刹那。
「ひっ、うわ、うわああああ―――――!」
扉越しに、人間の恐ろしげな悲鳴が聞こえてきたではないか。
続いて、空気のざわめく音。死臭と血の匂いが入り交じる。人間の代わりに、何か巨大で、この世のものとは思えないような異質な気配がぞわぞわと近づいてくる。
どうしたんだ? 外で何が起きている?
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