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「もう大丈夫だ。安心しろ、ツクモ」
「うん、ありがとう。でも、みんな……あんな風になっちゃって……ぼくだけ助かって……どうしよう、どうしよう」
洗濯ネットの上に疲れた体を横たえ、ツクモは人間に例えるならば今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳で私を見つめてくる。
「同胞たちが、最後の理性を振り絞ってお前を逃がしてくれたんだ。胸を張って彼らの分まで生き延びろ」
間もなくあの者たちは完全に理性のない恐ろしい化け物へと成り果ててしまうのだろう。猫の憎悪は深い。ひとたび感情が決壊してしまうともう止めることは出来ない。ましてや何十匹もの恨みが連鎖し、ついには人の血まで流してしまった。
ツクモは前足で目尻を押さえながら、うんと頷いた。
「ぼくね、おうちに人間のお母さんとお父さんがいて、毎日美味しいごはんをくれて、あったかいお布団で眠って、お友達たちと好きなときに遊んで、それがずっと続くアタリマエなんだって思ってた。
でも、そうじゃないんだね。本当は、それってすごくしあわせなことだったんだ」
しあわせ、か。
私もかつて似たような思いを抱いていた。私が居て、傍らに『相棒』が居て、共に難事件を次々と解き明かして。最高のペアだと自負していた。そんな日々がずっと続くのだと信じていたのに。
「当たり前は、当たり前には続かない。永遠などないんだよ。だからこそ今を必死に噛み締めなくちゃいけないんだ。人も、猫も」
籠の中にしんみりとした空気が漂う。
と――シメミルの様子がおかしいことに気付く。先程化け猫の対応に駆けていったナソカリに待機を命じられていたはずなのに、あろうことかまた建物内にふらふらと戻ろうとしているのだ。私たちの入った籠を置いて。
「おいシメミル! どこへ行く!」
「駄目! 危ないよ!」
二匹で声を限りに叫んでみるが、種族の違いか、私たちの声はうまく届いていないらしい。暗闇の廊下を進みながら虚ろな様子でぶつぶつと独り言を言っている。
「そっちは駄目だ! お前も殺されてしまう! もうあの猫たちに正気は無いのだ! 早く戻れシメミル!」
私の叫びも虚しく、彼は「先生、先生」とナソカリを探しているらしい。明らかに猫たちと声が響くほうへと誘われていく。
恨みの対象が『人間』そのものになってしまっているならば――まずは手近にいる無防備そうな個体を毒牙にかけようとするに違いない。我々は同種だから分かる。明らかにシメミルの命を狙って、彼を呼んでいる。
ご丁寧にネットにくるまれている上に、籠に入れられてしまっている私たちは成す術もなく、ただひたすらに、
「危ない!」
「戻れ!」
と鳴き続けるしかなかった。
誰か助けてくれ――そう私が祈った時、聞き慣れた声がぴんと立てた耳に飛び込んできた。
厳しくも、優しい響きの声。闇の中で翻る黒い外套。
「七五三君! しっかりなさい! 僕はここです!」
ああ、ナソカリがやってきた。よかった。
頼む、ナソカリ。
我々の同志たちを安楽へと導いてやってくれ。
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