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「さて。それではあらためてナギサルーペの使い方を説明しますね!」
台所の片付けを終えると、ぼくはナギサルーペを実際に身につけて実演会を始めることにした。七十刈先生は新しい物にとことん疎いので、助手のぼくが丁寧にレクチャーしなくては。
「まずこうやってかけて、ちょっと鼻に引っかける感じで下にずらして……そのまま遠くのほうを見ながらピントを調ーーって、うぎゃぁぁぁぁ!?」
ルーペを通して先生の真後ろに視線をやると、背広姿の青白い顔の中年男性が立っていた。
ぼくはごろごろと美しいフォームで椅子から転げ落ちる。
「だ、だっ、誰かいる! 誰かいますよ先生!」
「おや。彼が視えるんですか。ええ、ずっとそこにいらっしゃいますよ」
「ずっと? 不審者じゃないんですか!? どちら様ですかその方!」
それにしたって顔色の悪さが凄まじい。どろりとした昏い目つきはまるで生気が感じられない。あまりのことにぼくが口をぱくぱくさせていると、先生が事も無げな調子で紹介をし始めた。
「この方は、僕より前からここに住んでいる、七保志さんです。色々あってこの家で未練を残しながらお亡くなりになった方なのだそうですよ。いつもこの部屋の隅のほうで静かに佇んでいらっしゃいます。だから、この家の家賃は七保志さん割引で光熱費含めて三万円に設定されているのですよ。ああ、ありがたい、ありがたい」
と先生は七保志さんを拝み始める。平常通りの先生につられて冷静さを取り戻したぼくは、ナギサルーペ越しに観察を始めた。仕立てが良さそうなダークグレーのスーツがところどころ皺になっている。ちょっと乱れた白髪交じりのオールバック。年齢はぼくの父と同年代に見えるから――五十代半ばくらいだろうか。申し訳なさげに下げられた眉尻。柔和そうな薄笑み。
しかしシャツの隙間から覗いた首に絞められたかのような赤黒い痣が浮いている。
「知らない人が家に入ったのかと思ってびっくりしました。先住者ということは、以前からこの建物にいらっしゃったんですよね。すみません、ぼく霊感ゼロなので全く気付きませんでした。今日からここに住むことになった、先生の助手の七五三千です。宜しくお願いしますね」
はにかみながら、ぼくも新顔として自己紹介を済ませる。
「それにしても、どうしていきなりぼくにも七保志さんが視えたんでしょう。これは別に特別な力もない普通のルーペのはずなんですが」
試しに一度、ナギサルーペを外してみる。するとさっきまでそこにいた七保志さんの姿が煙のように消えてしまった。
「もしかすると、ガラスを通すと君にも視えるのかもしれません。レンズを覗くと世界が少し歪んで見えるでしょう。僕たちは基本こちら側とあちら側の境目に立ってその両方を視ているのですが……焦点がずれることで、普段は全く視えない人でも視えてしまうことが時々あるようです。条件が合えばですが」
元々の素質もあるでしょうけど、と先生の手が伸びてきて、傍の机に置いてあったレトロな鼈甲フレームの眼鏡をそっとぼくにかけてきた。誰のものかは分からないがこれも相当な年代物なのだろう。やさしげな肌触りの弦が両耳の上に当たる。度は入っていないらしい。
顔を上げると、七保志さんと再び目が合った。会釈を返してくれる。
「……どうです?」
「本当だ! ガラスを通すと視えます。はっきりと!」
「くださったルーペは僕のものなので、君にはこれを」
嬉しさのあまり先生に勢いよく飛び付く。よろけた先生の肩越しに、慌ててにゃあにゃあ駆けてくる億良と、微笑みながらぼくたちの様子を見守るサラリーマンの姿を捉えつつ、自分の助手レベルと眼鏡男子レベルがひとつ上がった喜びと感激を噛みしめていた。
こうして探偵舎で過ごす初めての夜が賑やかに更けていく頃には、さっきまで議論していた『レプリカ』のことなどすっかり忘れてしまっていた。
結局、例の店主からダイレクトメールが届くことは一度も無かった。
数多町七十刈探偵舎
第三話『にせもの』(終)
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