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五ツ星祭当日。
屋台の準備があるぼくが少し早めに家を出ようとしたら、すっかり身支度を整えた先生が現れて、同じ時間に探偵舎を出発すると言い出した。和装の鳶コートみたいな趣のある立派なよそ行きの黒装束を身に纏い、お出かけ用の古びた革トランクを右手に携えている。
「先生はそんなに早く来ていただかなくても大丈夫ですよ。ぼくは暫く出店の準備もありますし、お待たせしてしまいますので――」
ん、ひょっとしてこれは。
「先生、心細いんでしょう。心細いんですね! ぼくったら気が回らなくてすみません。分かりました先生。では一緒に行きましょう!」
「七五三君、僕は別に――」
「心配しなくても、ちゃんと大学までお連れしますから」
何か言いたげな先生の手首を掴むと、軽やかな足取りで大学に出発する。先生が一緒についてきてくれるからか、単調なはずの通学路の景色がまったく違った鮮やかさを見せてくれている。爽やかな朝の風を感じる。
「おやぁ七五三君。すっかり美味しそうな匂いだねぇ」
体感五分程で大学に到着し、着々と肉串の仕込みをしていると、都九見准教授がきらきらした空気を纏ってこちらへやって来た。ゆるやかにウェーブした若白髪。いつもながら自己肯定感に満ち溢れた翳り無い表情だ。
屋台脇で待機していた七十刈先生の前にしゃがみ込むと。
「やあ、万世君。久しぶり。今日は来てくれてありがとうね」
ラウンドフレームの眼鏡の奥で、色素の薄い瞳をとろりと嬉しそうに細めた。懐から取り出したタッパーから独特な匂いのする石鹸みたいな四角い固形物を摘まみ出したかと思うと、動物に餌をやるみたいにして先生に与える。
先生も先生でひょいと齧り付くと頬袋を膨らませるハムスターのように小さな口を動かしながらむぐむぐと頬張っている。あまりの事にお肉にタレを塗りつける刷毛を取り落としそうになった。危ない。
「ふふふ。どうかな、万世君。私の自信作『都九見っ蘇』のお味は?」
「――なるほど、『蘇』ですか。本格的でいけますね」
「乳大一斗を煎り、蘇大一升を得る――『延喜式』の記述を参考に私が監修して、調理研究部の子たちに再現実験してもらったのさ。次はこのオリジナル古代味噌をつけて召し上がれ」
「ちょっとツグセン! 先生に変なものあげないでくださいよ! この後ぼくの肉串を食べてもらう予定なんですから」
そういえばこの間、都九見さんの授業でも触れられていた。『蘇』というのは古代日本の乳製品で、チーズの祖先のような食べ物だ。当時としては高級な保存食だったそうで、乾燥させた牛乳を中火でとろとろ煮詰めながら小一時間ほどかき混ぜてペースト状にして作るらしい。
「大丈夫♪ 万世君の胃袋は異空間だから」
「やめてください都九見さん」
普段の食事風景を思い出す。この薄っぺらい体のどこに入るんだろうと不思議になるくらい、先生は物を吸い込むようによく食べる。
「そりゃ沢山食べる先生も素敵ですけど――あと、何故先生はツグセンにさらっと名前呼びされているんですか! ずるいです。ぼくだってさらっと呼びたい!」
「あっはっは。呼べばいいじゃないか、七五三君。なんでも、あの家に転がり込んで住み込み助手なんて面白そうなことやってるんだろう? あっ、私はずうっと昔から『万世君』と呼んでいるからね。すぐに直すことは出来ないよ」
と言いながら、先生に二つ目の『蘇』を与えている。なんだか妙に手慣れている。はらわたがぐつぐつ煮えるのを抑えながら、ぼくは網の上のマンガ肉を一生懸命焼き上げることにした。
お昼頃になると、学内に地区外のお客さんが増えてきた。
その甲斐もあってか、ボリューム満点のぼくたちの『古代風マンガ肉串』と、何故か店の隅に半ば強制的に置かれた准教授の『都九見っ蘇』はかなりの人気を博してお昼過ぎには無事完売となった。
黒胡椒で程よく味付けされた炭火焼のブロック肉は先生にもいたく気に入って頂けたようで、なんと三本も平らげてしまった。勿論食事風景はカメラロールにばっちり残した。
都九見准教授のミステリーナイトは午後六時開催予定で、一応ゼミ生も観客の誘導なんかをお手伝いすることになっている。ゼミ生の集合時間は少し早めの午後五時だけれども、まだあと三時間程ある。やっと七十刈先生と一緒に学祭散策が出来る――と思った矢先、
「いたいた! おい七五三、お前実行委員会本部に呼ばれてるぞ。なんか緊急呼び出しだってよ」
と、ゼミ生仲間の八杉が相当慌てた調子で駆けてきたのだった。
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