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彼女はさっきから大事そうに握りしめていた古めかしい手鏡を差し出してきた。装飾のついた楕円形の真鍮の枠によく磨かれた鏡が嵌まっている。
「これ――綺麗になれるおまじないがかかった鏡。綺麗になりたいって願いながら鏡を使えって。そう言われて、オカルトショップの露店で特別に譲ってもらったのよ」
「おや。随分とオカルティックな鏡だねぇ」
都九見さんがふむふむと覗き込んでいる。准教授は古今東西の呪詛を研究しているので、いかにも曰くありげなアンティークといった風情の品に学術的興味を引かれているのだろう。
「で。それ、マジで信じたわけ――あ、痛っ。静電気?」
超オカルトじゃん、とオカ研所属の五夢が鏡面を覗き込んだ直後、小さく悲鳴を上げて左目を押さえた。大丈夫? と心配するとすぐに平気だよと顔を上げたので安心した。
「何コレ。見たら痛みを伴うわけ? よくこんなヤバイの使ってんね」
「綺麗でいるためなら、ずっと人気で居続けられるなら、整形だって怪しいサプリだって黒魔術だって手を出すわよ。本気の美容女子ってそういうものよ」
そういうものだろうか。
外見のことも人気のことも意識したことがないぼくには理解出来ない。
「初めのうちは効果があったのよ。目元とか輪郭のラインが確かに変わってきた感じがして。でも、だんだん使い続けるうちに顔がチクチクし始めて――こんなことに」
彼女がゆっくりとマスクを外す。現れた有り様にぼくは息を呑んだ。頬や口元が、まるで般若の面のように引きつり歪んでしまっていたのだ。
「こんな見た目じゃ遊びにも行けないし、SNSに写真も上げられない! もう人生が台無し! 生きていけない――」
九谷さんが怒りを爆発させる。
「そんなときに、FIVESのタイムラインにあんたたち二人の写真がバズってるのが流れてきたのよ。付き合いたいとかならともかく――ミスコン優勝者より可愛いなんて書いてあって。それ見てたらたまらなく苛々してきて……」
ビシッ。まただ。空気がひび割れるような感じ。
彼女は強張った口元を右手で押さえつけながら、
「……適当に女装して写っただけのあんたたちが、あたしより可愛いなんて……数字獲れるなんて……絶対に許せないんだから――!」
彼女の目と口の端が吊り上がり、引き攣れるようにいっそう大きく歪む。その言い分を聞きながら、ぼくのほうまでなんだか苛々してきた。まるでぼくや五夢が、何の苦労もしてないみたいな口ぶりじゃないか。
「あのさ――九谷さん、だっけ? そういうのって、欲深いから他人のものが良く見えるだけじゃないか。人のことをゴシップで蹴落としたって、自分の欲しいものが手に入るわけじゃないだろ」
「何よどいつもこいつも! あたしはね、努力して可愛くなってるのに。可愛く生まれたからって、大した努力もせずちやほやされて。ミスコンに選ばれた時だって、昔の写真が流出して、前は不細工だったとか皆で言うのよ。あたしだって! 一生懸命メイクも研究して、エステにも通って、必死で頑張ってきたんだから! 生まれつき見た目がよくて恵まれてきた人間には、あたしの苦労なんて一生分からないでしょうね!」
「……人間は見た目だけじゃないよ。心が綺麗な人は、自然と表情や振舞いにもその綺麗さが表れる。だからぼくはそういう人に惹かれるし、自分もしゃんとしていようって思うんだ」
自分の見た目のせいで、他人から刺されるのはこれで何度目だろう。
ぼくだって、苦労していない訳じゃない。この容姿や生まれのせいで嫌がらせを受けたり、友達になってもらえなかったりしてきたのだ。学校での集団生活の中で、ぼくひとりだけが生まれつきの金髪と青い眼の持ち主でひどく浮いていたから。異質なものはそれだけでたやすく排斥されてしまうのだ。
それでも。ちゃんとぼく自身を見て、友達になってくれる人たちはいた。だからぼくは、自分の中の鬱憤や悲しさを他人にぶつけてしまう前に、自分自身を見つめ直そうと思えるようになったのだ。
「そんなの、外見が伴ってるから言えるのよ! どんなに性格が良くても、素敵なものを持ってても、見た目が悪かったら目にとめてすらもらえない。イイネもリツイートももらえない! 中身なんていつまでたっても見てもらえないじゃない! 見てもらえないものに価値なんてないのよ!」
「そんなことない。数は多くなくても、ちゃんと中身まで見てくれる人は必ずいるよ。価値がなくなるなんてこと、ないはずだよ」
なんでもかんでも数字で計られてしまう、SNSの弊害だ。反応の多さが自分の存在価値だと思い込んでしまうのだ。本当なら、反応が全く無いからって自分の価値まで損なわれるわけじゃないはずなのに。
ぼくなら。沢山の人にイイネと思われるより、たった一人の人にでも心底理解してもらえたら、それでいい。
「何よ! 善人ぶって! あんたも世間から見捨てられてしまえばいいのよ! スキャンダルで人気が落ちて潰れろ! 潰れろ! 潰れろ!」
激昂した九谷さんが、付け爪のついた両手を振り上げてぼくに踊りかかってくる。
あ、引っかかれる――顔面へのダメージを覚悟して咄嗟に目を閉じた瞬間、横から勢いよく飛び込んできた五夢が、彼女の手首をばしっと掴んだ。
「――その程度で潰れるかよ、クソブス!」
「あ、あ、あ、あたしに! ブスって言うなぁ! こんな顔じゃなければあたしだって――」
「見た目じゃねぇよ! 心がドブスじゃねぇか! ボクのありもしねえ噂立てやがって……! 可愛くなりたいなら正々堂々勝負しろ!」
ドスの効いた声音。五夢は相当怒っている様子だが、後ろで何故かのりまきさんと鷹の爪さんが黄色い声援を上げている。本当に女子ってよく分からない生き物だと思う。
取り押さえられた九谷さんの元へ万世先生が歩み寄り、小さな子供を叱るような、静かで厳しげな声音で告げた。
「貴女はまだ分からないのですか。そうやって人にぶつけても仕方無いのですよ。その顔の歪みは、貴女自身の心の歪みです。その鏡は――持ち主の心を映してその念を強める、呪力のこもった『増幅器』なのですから」
本来であれば、使用者の清らかな心に反応して素晴らしい効果をもたらすはずなのですが――と先生が付け加える。
「ご自分で気付かない程、常習的に憎悪や嫉妬の念を込めてしまっていたのでしょう。その悪念が、えすえぬえすの噂に力を持たせる『核』となってしまった。鏡は内面を映すものですから、貴女が心から生まれ変わらない限り、その障りが治ることはありません。自分を見つめ直して、心健やかにおなりなさい」
「――生まれつき恵まれていて、大した努力もしないような奴らに、ケチをつけて何が悪い」
小さく零すと、SNSの女王はその場で泣き崩れてしまった。
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