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ーーめくん。
七五三君。
ーー誰かがぼくを呼んでいる声がして。
急速に、現実に引き戻される。
「七五三君?」
「わっ」
「大丈夫ですか、七五三君。カレーが煮詰まっていますが……どうしたんです」
焦げかけの臭いを心配して、万世先生が台所まで見に来たらしい。慌ててコンロの火を消し、誤魔化すように、寸胴鍋の底で煮詰まりかけていたルーをおたまじゃくしで手早くかき混ぜた。
「あぁすみません。つい、考え事をしてしまって」
「学業との両立でいつも大変でしょう。もし探偵舎の業務で疲れているのでしたら、君は少し実家に戻って休んでいただいても」
「あそこには帰りませんよ。今はここがぼくの居場所ですから。気にしないでください」
にっこりと微笑んでみせる。
大丈夫、うまく笑えているはず。先生がぼくを見つめ返しながら首を傾げた。翡翠色の瞳に心の内を見透かされているような気がして、ぼくは思わず食い下がる。
「ねぇ。本当に、平気なんです。こんなふうにお側に置いて頂いて、先生達のお役に立てるのが嬉しいんです。だからーー」
何かすがるものが欲しくて、両の指で目の前の先生の薄っぺらい肩を掴む。黒い羽織ごしに確かな体温と息遣いが伝わってきて、ぼくは幾らか安堵する。
「……七五三君?」
「万世先生。先生は、『儺詛を解く為』に生まれてきたんですよね」
「ええ。その通りですよ。それが僕の存在理由ですから」
ぼくがどれだけ自問自答してもついぞ答えられなかった問いにわけもなく答える。後光が差して見えた。台所の灯に照らされた先生を、きらきらと見つめ返す。
やっぱりこの人は、特別な人だ。
人間の業が生み出した得体の知れない呪詛の数々と戦って、解き明かせるだけの力を持っている。
最初に出逢った時も、死体かと思ったらしっかり生きていた。何度も危ない目には遭ってきたけれど、切り抜けて生き延びてきた。この人は強いし、選ばれた存在だし、きっと死なない。そうに違いない。
だって、ここまでぼくと近い距離で親しくしてくれているのにーーこんなふうに触れ合ってすらいるのに、今の今まで何ともないなんて。
「先生は、ぼくにとって必要な人です」
先生に染み着いた畳と白檀の香りで、萎れた肺をいっぱいに充たす。何だかぼくの存在までもが浄化されていくような心地になる。
きっとこの出逢いは、呪われたぼくの前に垂らされた最後の蜘蛛の糸なのだ。ぼくは幽かなこの糸を手放すわけにはいかない。
万世先生と一緒にいれば。
先生ならば、ぼくの呪われた運命を変えてくれるかもしれない。ぼくの人生を取り戻せるかもしれない。
そう、思えるのだ。
「だから先生は、先生だけは。
絶対にーーいなくならないでくださいね」
数多町七十刈探偵舎
第七話『ともだちのさいご』 終
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