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腹ごしらえを済まさないと動けません、という万世先生の主張により、三四さんの用事を聞く前にぼくらは早めの朝食をとることになった。
ぼくらが食卓についている間もずっと、リビングのソファーから三四さんが視線を向けてくる。出した紅茶とお茶菓子に殆ど手もつけず、じっとただこちら側を見つめてくるのだ。
なんとなく急かされているような感じがしてどうも落ち着かない。しかし気になって仕方がないのはぼくだけのようで先生は呑気に、
「七五三君。お味噌汁のお代わりをください」
とお椀を差し出してきた。味噌汁の味はお気に召したらしい。一晩しっかりと煮干しをつけこんで出汁をとった甲斐があった。具の油揚げと長ねぎをふうふうしながら、ゆっくりと朝食を楽しんでいる。髪の毛を逆立てたまま。
足下では探偵舎の一員であるベンガルネコの億良が、お皿に入ったささみごはんを上品に食んでいる。猫特有の『ちょっと食べ』で、少し食べては日向ぼっこをし、また戻ってきて少し食べ……を繰り返している。
数多町迷宮通の奥の奥。一番地にあるこの木造平屋で先生の助手として暮らし始めて、ようやくぼくにも心休まる日常が訪れるようになっていた。こんな何気ないひとときを大切にしたいな、とあらためてぼくは噛みしめーーている場合じゃなかった。
後ろから食卓を見つめてくる三四さんがちょっと怖くなって、ぼくはついつい間を持たせるべく話しかける。
「あの、よければ三四さんも……食べます?」
「七五三さん。そんなに気になさらなくていいのよ。朝は済ませてきましたし、私、万世さんを観察しているだけで時間が経つのを忘れますの」
くすくすと口元を押さえて微笑む。
ゆったりとした朝食が終わり、先生がようやく洗面所に立って身支度を開始し始めた。ぼくと三四さんがその場に取り残される。
「……ところで先生のこと、万世さんとお呼びなんですね。ずいぶんと親しげですね?」
ぼくが尋ねると、三四さんは「ええ」と恥ずかしそうに頷いた。色白の頬をほんのりと染めながら、思わせぶりに瞬きをしている。女性というものはやっぱりよく分からない。
ぼくは心の中の『要注意人物リスト』に三四さんの名を密かに足しておいた。ーーなお、今のところブラックリストの揺るがぬ筆頭は都九見准教授だ。
間もなく、支度の済んだ先生が応接間に戻ってきた。いつも通りの安定の黒い装束と羽織姿。最近また伸び始めてきたくすんだ髪の毛。古びたカンカン帽で寝癖を無理矢理押さえこんでいる。
「四ツ谷さん――用事とはいつものあれでしょうか」
「えぇ、万世さん。いつものあれをお願いしたくて」
三四さんがずずいと歩み寄る。
『いつものあれ』? クエスチョンマークを沢山浮かべるぼくをよそに、二人は何やら帳簿のようなものを広げて打ち合わせを始めた。
「さて。そろそろ行きましょうか」
「うふふ、今回も宜しくお願いしますわ」
「あの――! お二人は、一体どこで何をなさるんですか?」
気になって気になって仕様が無い。
黒革のブーツを履いてさっさと出発しようとする先生と、付き従う三四さんの後ろ姿を慌てて追いかける。万世先生は入口のところでくるりと振り返り、高くも低くも無い錆びた声音で、事も無げにこう答えた。
「――取り立てです」
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