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幕間「かみにまつわる」番外 ~過去追想~
*
随分と、昔の話だ。
やつの髪を切ってやったことがある。
きっかけはよく覚えていない。些細なことだったと思う。
怒り、悲観、惨めさ、絶望、劣等感――懸命に封じ込め続けてきた負の感情が、ふとしたはずみにとうとう爆発した。
昏い衝動が全身を駆け巡り、気が付けば手近な拳大の石で思い切り殴りつけていた。血のしたたる額を押さえて目を回している相手に、勢いのまま馬乗りになって乗り上げた。植物みたいに伸びた長い髪を雑にひっつかんで懐の小刀を抜き放つ。ぶつぶつ引き千切れるような感触。命の糸を断ち切るような感覚。終わる頃には洞窟内に泥と血の匂いが充満し、殺意と熱が不気味に渦を巻いていた。辺りは静かだった。お互いの呼吸の音だけが不気味に反響していた。
不揃いに断髪された頭と、一面に散らばる血と髪の残骸の上に投げ出された手足を上から眺め下ろすのは快かった。胸のすく心地だった。
ざまあみろ。これで。
お前はもう。
「選ばれない」
勝ち誇るように告げてやった。
豊かに伸びた自分の髪が、帳を下ろすようにやつの血塗れの顔の上にさらりと落ちかかる。忌々しい血で毛先を汚したくなくて慌ててかき上げた。
体の内から出てくる『髪』にはその者の魂が宿る、とずっと教わって育ってきた。巫覡の者は、殊更に髪を慎重に扱わなくてはならない。特に、生まれたまま伸ばし続けた胎髪は強い呪力を宿す。大人達は皆髪を長く伸ばして結い上げていた。
カミに近付く為の要件。カミに愛される為の資格。
それをお前はたった今永久に失ったんだ。
「……それがお前の、コタエか」
淡々と問い返してくる。
長い前髪が失われ、顕になった生気の無い底無し沼みたいな目は、それでもなお何の感情も浮かべようとしなかった。眼球を潰してやりたくなる。どこを見ているのか分からないこの目が、ずっと前から大嫌いだった。見下ろすこちらの姿さえ、ろくに映していないのが酷く苛立しかった。
「答え?」
「――だが、違う……」
「負け惜しみか?」
「違う……選ぶ、選ばれる、じゃない、」
落ち着き払った声音が、昂った神経を逆撫でしてくる。相変わらず繋がらない会話。血を流しながら、己の状態など気にもかけず、ぶつぶつと思案を続ける痩せた子ども。小刀の柄を握りしめる掌が汗ばんで、怒りに震えていた。そのままひと思いに喉を切り裂いてやりたかった。ここには他に誰も居ない。今なら出来る。切っ先が揺らめく。すぐにでもやつの全てを否定してしまいたかった。
「……そうなる」
確信めいた声音で、そう言い放った。
どういうわけか、言葉を返すことが出来なかった。
纏わりつく不快感を振り払うように刃を放り投げて咆哮した。底知れぬくらやみの中で。ひとならぬ化物さながらに。
*
結局やつが何も告げなかったので、咎めを受けることはついぞ無かった。やつの奇行はいつものことだったから誰も不思議に思わなかったのだろう。
今でも――少し後悔している。
あの時。
切り落とした髪を一房でも拾っておけばよかった。
手の届くうちに殺しておけばよかった。
こんなことになるのだったら。
『数多町七十刈探偵舎』
幕間「かみにまつわる」番外 ~過去追想~(終)
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