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乗客のほとんどが市民病院前で降り、ちづ江もその流れと一緒に馴染みある建物へと入っていった。
通っている整形外科は一階の奥だ。建物の中央には階段とエスカレーターが設置されており、そこを突き当たって右に曲がらなければならない。
ちづ江が階段前へと差しかかったとき、甲高い子どもの声が聞こえた。
「ママー、はやく、はやく」
ちょうど階段の中央らへんで、二、三歳の男の子が一人で降りていた。両手は手すりにぶら下がるようにつかまり、カニのように体を横にして楽しそうにしている。母親はその後方にいた。抱っこ紐でもう一人の赤子を胸に抱き、大きな荷物を背と肩に抱えている。慌てるように男の子に声をかけていた。
「よーちゃん、先に行かないで。待ってて」
しかし男の子は、そんな声を無視してますますはしゃぐ。ちづ江はちろりとその光景を横目に、階段前を通り過ぎようとした────が。
それは一瞬の出来事だった。降りきるまであと数段というところで、男の子の体が浮いたのだ。
なぜそうなったのかはわからない。ただ、階段からも手すりからも身を投げ出してしまった男の子は宙を浮いたかのように見えたが、ただ落下しているだけだった。
ちづ江は思わず目も口も大きく開いた。頭は空っぽになり、気がつけば視界には皺だらけの自分の両手が、男の子に向かって伸びていた。
「よーちゃん!」
母親の叫びが聞こえた。
あっという間の出来事だった。階段下にいたちづ江は見事に落ちてきた男の子をキャッチした──というよりも、体を下敷きにして男の子の怪我を防止した。
いくら小さい子とはいえ、落下の衝撃はちづ江の古びた体には堪えた。ズキズキと腰も腕も痛い。骨折するところだったじゃないか、と怒りを感じそうになったが、風船が割れたように男の子が突然泣き出したので、驚いたちづ江は何も言えなくなってしまった。
「うわーん! うわぁーん!」
「よーちゃん、大丈夫!?」
駆けつけた母親が、男の子を抱きしめ顔を真っ青にしていた。そしてすぐに、ちづ江へと視線を向けた。
「すみません! 大丈夫でしたか!?」
そこでようやく、ちづ江は「あいたたた……」と声を漏らすことができた。近くで聞く子どもの泣き声の、大きなこと大きなこと。そちらに気を取られてしまって、自分の体の痛みを忘れそうになっていたのだ。
(うるさいねぇ。子どもの泣き声ってのは、こんなにうるさいのかい)
埃をパンパンと払いながら、ちづ江は助けた男の子を見下ろした。涙と鼻水をぐちゃぐちゃにして、母親の服になすりつけている。母親は膝をつき、抱っこ紐の赤子ごと男の子を抱きしめながら、ちづ江を見上げて何度も頭を下げた。
「本当に……本当にありがとうございます」
「別に。たまたま通りかかっただけだよ」
「あの、お体は大丈夫でしたか? 怪我はありませんか?」
「あ? ……あぁ、ないんじゃないの」
そう答えている間も、ちづ江の心臓はまだ少しだけバクバクと鳴っていた。もし自分が通りかかっていなかったら、男の子はどれだけの怪我をしていたのだろうか。無防備に空中へ投げ出された小さな体を思い出して、ひやりとする。
そんなちづ江の前で、母親は子どもを抱きつつ器用に肩にかけていたトートバッグを漁った。何かを手に持ち、ちづ江へと差し出す。
「あの、心ばかりですが、良かったらこれを」
小さな紙袋だった。カサリと鳴るそれをちづ江が受け取ると、母親は微笑みつぶやいた。
「サンキャッチャーです」
「……さんきゃ……ちゃ?」
意味不明な単語を言われて、ちづ江はきょとんとする。母親はもう一度「サン、キャッチャー……です」とゆっくり言うと立ち上がった。
「趣味で作っているのですが、良かったら窓辺にでも……。本当に、ありがとうございました」
母親はそれだけ言うと、泣きやんだ男の子の手を引いて離れていった。
男の子はちづ江を何度もふり返り見て、時折小さな手を振ってくれる。紅葉のような手から送られるバイバイに、ちづ江は応えることもせずに──ただ、遠くになるのをずっと見つめていたのだった。
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