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ある日、ちづ江は部屋の中でうたた寝をしていた。春眠暁を覚えず。しかもこんな、サンキャッチャーからの柔らかく綺麗な光を浴びていると、ちづ江の瞼は重くなり、うとうととまどろむのだ。春は近い。虹も近い。
そんな夢現の中で、ちづ江は夢を見た。夢の一部は記憶の回想と再構築でできているという。
ちづ江が見ていたのは、まだ若き頃の新婚時代の思い出だった。
そう、ちづ江にも伴侶となった男性がいた。想い合う人と結婚し、子を宿し、幸せな家庭を築こうと夢膨らんだ時期があった。
けれどそれも、束の間のこと。産んだ子どもは息をしておらず、産声も聞かせずにこの世を去ったのだ。
なぜそうなったのか、当時の医学ではわからなかった。医師は「誠に残念なことです」と口にして、母子手帳にあった「死産」の文字を丸で囲った。その出来事は夫婦に亀裂をもたらし、離婚という道を選ばせることになる。本来ならばこんな時にこそ、支え合うことが夫婦のかたちなのだろう。でもそれがちづ江と夫にはできなかった。彼は去った。その後のことなど、ちづ江には知る由もない。
突然無くなった腹部の圧迫感と温もりを、当時のちづ江は何度も何度も虚空ごと抱きしめた。
ここにたしかにいて、鼓動を感じていたのに。
腕に抱いた我が子は、頼りないほどに軽く、心許なかった。力を入れたら壊れるのではないかと怖くて、力いっぱい抱きしめられなかった。男の子だった。少しだけ、夫に似ているような気もしていた。
もしあの瞼が開き、口を開けていたなら、声はあの助けた男の子のようにとても大きなものだったのだろうか。その小さな口から発せられるちづ江を呼ぶ声は、愛らしいものであったろうか──。
──ママ。
こんな声だろうか。
──ママ……ママ。
こんな笑顔だろうか。
差し出した両腕で、ちづ江は見たこともない成長した我が子を抱きしめた。
ごめんね──ごめんね──愛してたよ。愛しているよ。
虹色の光の中で、ちづ江は我が子を抱きしめ続けた。それは五十年ぶりの抱擁。あの時込められなかった力で、ぎゅっとぎゅうっと、抱きしめた。
目が覚めた。
そこにはもちろん我が子はおらず、ただいつもの一人暮らしの室内で、サンキャッチャーの光が揺れていた。
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