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いつもの市バスに乗り込んだちづ江は、その光景を見て目を細くした。ほぼ満員の車内にて、以前見かけたあの若い女が立っている。これはいかん、と鼻を鳴らしてその女の目の前に立ち言った。
「妊婦なのに立っているなんて、けしからんね。ほいほい、座ってる誰でもいいから代わってやんな」
その言葉を聞いて、まわりの人間は驚いた。声をかけられた女は、なおのこと。
「はぁ……?」
ポカンと間抜けに口を開けている。
空気を読んだ女子高生が一人立った。つられてとなりのサラリーマンも立ち、二人分の空席ができた。妊婦の女とちづ江が座り、並んだ。
やや緊張した女のとなりで、ちづ江は前をただまっすぐ見て言った。
「何ヶ月だい」
「……七ヶ月です」
「そうかい。頑張んな」
それだけで会話は終わった。となりの女はしばしの無言のあと──「どうも」と小さく言った。
ちづ江は目を閉じる。瞼の裏に、虹色の光が残っている。しかしそれも、窓から差し込んでくる春の陽射しで白くかき消えた。
光というものは瞼を閉じても、その存在を主張する。まるで耳をつんざく子どもの泣き声のようだ。
でも、それも悪くない。悪くないねぇ──と、ちづ江は思う。
『発車します。ご注意ください』の機械的なアナウンスのあとに、バス運転手の「揺れますので、気をつけて」とどこか明るい声がした。バスは発車し、ちづ江の小さな体は、ゆらりと揺れた。
終
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