虹色の抱擁

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 いつもの市バスに乗り込んだちづ江は、その光景を見て目を細くした。優先席の左端に若い女が座っている。これはいかん、と鼻を鳴らしてその女の目の前に立ち言った。 「若いのに座るなんて、何を考えてるのかね。優先席だよ。年寄り優先だよ」  ちづ江は御年七十五歳。今日も老体に鞭打ち、市民病院の整形外科へと慢性の肩こり治療のため通っていた。それなのにこんな若い女に、いつもの席を取られているなんて。その女といえば、すぐ席を譲るかと思いきや、膝に置いたカバンに手を伸ばして何やらキーホルダーをちづ江に見せた。 「すみません。妊娠中なんです」  丸くて小さいキーホルダーは、ちづ江の老眼にはいささか見えにくかった。 「それが何だね。妊娠は病気じゃないよ。私も妊娠中のときはあったけどね、畑仕事も水仕事もこなしたもんさ」  最近の若者は高齢者に対する礼儀がなっていない、とちづ江は憤慨する。そそくさと席を立った女を尻目に、空いた優先席へどかりと座った。最近は膝関節がつねに痛い。膝をさすると、視界の端にサラリーマンが先ほどの女に席を譲っているのが見えた。  ふん、要領の良い女だね。若いうちだよ、男に優しくされるのなんてねぇ……と、ちづ江は頭の中でひとりごちて目を閉じる。『発車します。ご注意ください』の機械的なアナウンスが聞こえ、ちづ江の小さな老体は振動に乗りゆらりと揺れた。
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