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結び2
●夜・帰り道
(篤のモノローグ)
帰り道。足の様子を確かめながら、ちょっと走ってみる。痛みは感じない。事故前の足の状態そのものだ。歩みを進めるごとに、あのおじさんの存在が確信へと変わっていく。
家に着いた後、気になって貧乏神について調べてみる。貧乏神に対する常識的な記述が大半を占めていたが、中には「貧乏神は貧乏神であると同時に福の神でもある」という見解や、貧乏神を丁重に扱った結果として福がもたらされた、などの記述もわずかにあった。
おじさんは自らを「ほいど」と名乗ったが、「ほいど」とは私の故郷ではホームレスを指す言葉だ。よく子供達は相手を馬鹿にする際、この言葉を用いたし、まるでゲームのように、不潔だと感じられる相手や気に入らない相手を罵る目的でこの「ほいど」という蔑称を使った。まるでこの世のあらゆる穢れをなすりつけるように。しかし「ほいど」ははるか昔、「ほぎびと」や「ほかいびと」の名で呼ばれ、多くの共同体の間をさすらう呪術者や芸能者であったようだ。村々や都市に異なる文化や情報を伝える交易者の側面もあったから、各地域で喜んで迎え入れられていたらしい。一般的には「こじき」という言葉の方が馴染み深いかもしれないが、「こじき」はもともと、食を乞うと書いて「こつじき」と呼び、古代インドに現れた行いで、修行者や修行僧の托鉢をその起源としている。これらの言葉と人々の行為は日本の近代化と共に、徐々にその職能や機能を剥奪され、負のイメージのみを強調されるようになっていく。やがては負の役割を背負った物乞いする人間を指す言葉として世間一般に定着していく。そしてさらに時代が降って、差別用語と認定されたこれらの言葉は、我々の知る「ホームレス」という名称に取って代わられる。
「ほいど」について調べるうちに先の「正義の味方」との奇妙な共通点に気がついた。つまり彼らは共同体と共同体のはざまを行き来する人であり、言わばその境界線こそ彼らの住む場所である。仮面ライダーの例で言えば、「正義の味方」は悪の秘密結社の人体実験の餌食になり、代わりに超人的な力を手に入れる。しかし彼は悪の秘密結社に反旗を翻し、その力を少年との友情に基づく市民社会を守るために使う。「正義の味方」は悪の秘密結社と市民社会のはざまで、その呪われた力ゆえに市民社会の一員になることが出来ず、かと言って悪の秘密結社の手先に成り下がることも出来ない。その境界に位置しながら、彼は市民社会を守らずにはいられない。それは現実的に考えると絶望的な戦いだったに違いない。「ほいど」と「正義の味方」はまさに同じ空間に生活する住人だったろう。この境界線は単に地理的な場所を示すだけでなく、内と外。こちらとあちら。昼と夜。正常と異常。秩序と混沌。生と死。聖と俗。あらゆる対義語が思いつくが、まさにそのはざまこそ彼らの住む場所なのだ。
さらに拡大解釈が許されるのなら、私が生きた時代は紛れもなくはざまの時代だったように思う。プラザ合意に端を発した日本の繁栄。バブルの崩壊とその見立てを誤ったがゆえの金融危機。その後の長いデフレ時代。失われた20年。ほいどのおじさんに話した私の故郷での出来事は、まさにその20年の間の出来事だったし、経済の低迷が招く人心の荒廃によって、私に限らず同世代が、あらゆる場所で途方もないないストレスを被っていただろうことは、当時の自殺者の統計を見れば明らかにわかる。その間、パソコンやスマホに代表されるテクノロジーの進化は着実に進んでおり、それは様々なことを可能にしてくれた。私が今後も注目していきたいのは、ネットワークによってもたらされた「つながり」だ。私自身もそうだが、雇用や仕事の面でも、人々のつきあいにおいても期待を持って眺めている。当然ながらネットワークにも負の側面はつきまとうが、私達の時代、明らかに高い能力を持った人が、小さな生活圏内で生きるがゆえに誰にもその能力を認められず一生を送るのをこの目で見ていたし、認められてはいても黙殺されるケースがたくさんあったように思う。ネットワークは端的に言えば、そのような異能力者に機会を与えてくれた。それは同時にはざまに生きる者にとっては他の世界とつながる窓口でもある。そのつながりは同じ国内の中にあっても、価値観を異にする共同体になりうる。オンラインサロンなどはその典型例かもしれない。
ご存知の通り、テクノロジーの進化と並行して雇用ははるかに回復したし、経済もバブル期の最高値には届かないにしても、堅調さを維持している。なにより人工知能やIoT、ブロックチェーンやVR/ARなどの新技術によって、人間の知性を超えるシンギュラリティが約20年後にやってくるという。戦後、大阪の万国博覧会の頃に無邪気に夢見ていた未来、予想されながら届かなかった未来が、もうすぐそこまで来ているのだ。一方で、日々のニュースを見ていると、企業や教育現場、スポーツは特に多いが他の様々な団体のトップが、ツイッターやyou tube、あるいはテレビなどの公の場で批判されたり告発を受けるのをたびたび目にする。各々の場で、規模が小さいように見えても、それは紛れもなく世代間の政治闘争に他ならない。当然、私達の時代にもそれはあった。しかし当時の権力者は有無も言わさず首を切ったし、それは本当の意味で命の危険を伴うものだった。最も規模の大きく象徴的に現れているものは、ホリエモンや、鈴木宗男が逮捕された事例だと思う。当時はもっともらしく悪人に仕立て上げられていたが、その容疑は首をひねりたくなるような内容だったし、難しい言葉を並べ立てているが「それが犯罪?」と時間が経った今、疑問を持たずにはいられない。それぞれが人柄から滲み出る唯一無二の個性の持ち主だったし、カリスマ性と優れたリーダーシップを発揮できた人物だと思う。さらに並行して当時、ブラック企業なども問題視され始めた時期だった。実際、起業後3年以上生きる会社は少なかったし、全体的に離職率が飛び抜けて高かったことなどを考えると、職場はまさに地獄だったろう。就職を果たした人でさえ、心の病を患い、引きこもりを余儀なくされる例も跡を絶たなかった。
夢も希望も今では消え失せ、目的も失って、はざまをさまよう人々に何ができる?時代のはざまで、もやは無かったこととして黙殺され、あらゆる関係を絶たれ、孤独を余儀なくされている。紛れもなく私はその中のひとりだ。もう少年の頃を過ごした牧歌的な世界ははるか遠い……。それでも、どうか意欲を失わないで欲しい。失われた20年の間、地中に育つ種のように、根を張り、蔦を伸ばして成長したネットワークは、たとえ一時的にせよ牧歌的な世界を可能にするはずだから……。
そういえばおじさんは私にこう言った。
「もうひとりで戦うのは終わりにしろ」
そうかもしれない。
そのための環境はもう整っている。
夜は深く、真っ黒な闇に包まれている。
それはどこか心地良い膜の中にいるようで、その中では孤独と知識、学習と憤り、怠惰と甘やかさ、そして同時に四角い枠の中から「あちら側の世界」の情報が絶え間なく届けられていた。それらの感情と記憶は細かい断片に切り刻まれ、起きている間も夢の中でも気の遠くなる時間を、ただ、いつまでもいつまでも浮遊しながら対流していた。永遠に続くように思われたその時間……
美しくいびつな設計図を宿し、分断されたそれぞれの種達は芽を出し、蔦を絡めて合い、アスファルトのような硬い夜の闇を突き破って、しわがれた声の産声を上げて暁の空を取り戻す。
そんな夢を見た後日、資料用の本を探して、ダンボールの中を整理している最中、大切なものを見つけた。
祝い人のおじさんが持っていたものと同じ黒曜石だ……。
夜逃げ同然で故郷を出る時、片っ端から部屋にある物を詰め込んだが、まさか残っているとは思わなかった。
仲間の証。
そういえばあの洞窟の秘密基地の中で、黒曜石を渡す時、ほいどのおじさんを救護係に任命したのは、他ならぬこの私だった。覚えていたかどうかはわからないが、おじさんは恩返しと同時に、仲間としての任務を果たしに来たわけだ……。
子供篤「おじさん!おじさんは……
そうだな…… 白い服着てるから
救護係ね!これ!仲間の証!
これ持ってる限りどこにいても
おれたちはず〜〜〜っと仲間
だ!」
祝い人「救護係か……悪くないのぅ」
大人篤「おんちゃん、どうもな……。
どうもな、おんちゃん!」
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