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 さんぶんのいちだけ。彼女のその声を、僕はたいてい思い出す。  彼女の両腕が僕のわきを通り、ぺたりと正面から身体を寄せる。僕もそっと、彼女の背中に手をまわす。  互いの服と、皮膚が二枚。  彼女の温度は、それらをいともたやすく透過する。心臓の音が重なって、僕の気持ちはさらさらと溶けていく。  胸をつっかえさせたり、ぎゅうぎゅう締め付けたり、ぐっと押し込んだり、ずんと重くしたり。自分で気づくものから気づかないものまで、毎日を過ごしているとどうしたってそういうものに感情が圧迫されていく。  それらがふっとすくい上げられて、さらさらと溶けて流れていく。  三十秒以上のハグで約三十パーセントのストレスがなくなる、らしい。けれど三分の一だろうが三十パーセントだろうが、どう考えても謙虚すぎると思うのだ。  彼女と抱きしめあうと、いつもそれくらい心が落ち着いた。  この行為に決まりはない。始めるのはいつも彼女からだったけれど、お互いになんとなく終わりが分かって、どちらともなく身体を離す。  身体の間に空気が通るこの瞬間は少し寂しくて、少し愛おしい。  それは彼女と決してひとつにはなれないことを意味していて、だからこそ互いの温度を分けあえるのだと実感する。彼女と溶けあってひとつなれたらこの寂しさはないのに、彼女とひとつだったらこんなに嬉しい思いもない。  本当は僕があと一歩でも踏み出せば、ひとつにならなくとももっと彼女の近くにいける可能性があると分かっている。でも怖いから、僕は踏み出せないでいる。 「おやすみ」 「おやすみなさい」  彼女が電気を切って、僕たちは布団に潜り込む。  同じ大学、同じ学部、同じ専攻、同じゼミ。いくつもの偶然が重なって知りあった一つ上の彼女と僕。それが今では先輩でも後輩でもない、友人でもない、ましてや恋人でもない、そんな曖昧なカーテンで覆われた関係の中にいる。  それは嬉しくもあり、苦しくもある。  一歩踏み出してそのカーテンを払うのは賭けと同じ。失敗したら全て終わってしまう。何もしなければこのままでいられて、何も失うこともない。だから僕はこの先もこのままでいるのだろうと、こんなことを考えるたびに思うのだ。
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