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玄関の扉が開き、冷気と一緒に彼女は帰ってきた。
「晩、ごはん何?」
長い黒髪をかきあげて言う彼女は、今まで履いていた靴下を脱いで、当たり前のように僕に投げつけた。
ひどい仕打ち。でも、いつもの事だ。
「親子丼」
僕がキッチンに立ったまま振り返らずに言い、土鍋で炊いたご飯を確認する。彼女が帰ってくる10分前に炊き上がったご飯の状態は、美しいと表現する以外のなにものでもない。
「え〜、中華がよかった。八宝菜とか」
振り返って彼女を見る。
冗談だろ、と思うが決して口には出さない。
彼女は僕を整った顔で見つめ返す。
小さな口の角をあげ、完璧な微笑みを浮かべている。細くて長い髪が艶めいて肩から流れる。雑誌の表紙を飾るようなポージングに、僕は酷く落胆する。この笑顔で大抵の事が許されると彼女は信じていて、実際に今までそうやって生きてきた。
僕には腹黒ババアにしか見えないが、それを口に出すことはない。口に出すことはないと言うか、言えないな。
しかし、今の問題はそれではない。
まさか今から八宝菜を作れ、と?
「あのさ。昨日、親子丼食べたいって言ったのあなたなんですけど」
「昨日は、ね。今日は八宝菜なの」
大きな丼に炊き上がった白米を入れ、親子の具をかける。
昆布と鰹から出汁をとり、卵はわざわざ生産者直販の店で買った。鶏肉はオーガニックの国産鳥だ。渾身の親子丼。
なのに、今から八宝菜に作り直すなんて、悲しすぎる。時計はもう夜の8時を回っていた。
「今日は親子丼で勘弁して。後でプリン買ってくるから」
コップにお茶を注ぎながら彼女を見る。彼女はカバンとコートをソファに投げ捨て、その上に横になった。
「仕方ないなぁ、よっし、プリンで勘弁してやろう」
よっし、何とかなった。
「あのさ、コートの上に寝ないでよ。シワになる」
「ほずみは口うるさいよね、シワになる、シミになる、散らかすな、片付けろ、洗濯物を脱いだまま出すな、風呂の蓋を閉めろ、電気消せ、食べかす落とすなって」
「不満なら親子丼もプリンもありません」
軽くかえでを睨んで、机の丼に手を向ける。彼女の表情は一瞬にして変化し、素早く食卓の席についた。
「食べる、食べる」
「……どうぞ召し上がってください」
手を合わせ、いただきます、と言い、綺麗な所作で食べ始めた。
この細い体のどこに、食べ盛りの男子高生も顔負けの丼物が収まるのだろうかといつも感心する。
黙っていれば美人なのに、口を開けたり動くと周囲の印象を激しく裏切る、その残念なギャップは身内には迷惑でしかない。見た目がいくら若く美しくても迷惑な生活態度の方が、身内にとっては問題だ。
「今日は半身浴して、ほずみにマッサージして貰って、ピアノも弾いて貰って、プリンも買って貰って…ピアノは寝るまで弾いててね」
耳を疑う。
いや、半身浴以外ぜんぶ僕ですけど?
僕はため息をついて彼女の正面に座った。
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