陽は沈む。

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陽は沈む。

プロローグ 「せやからあかんて、そないに泣いたらバイバイが寂しくなってまうやろ?」 不気味なほど煌々と輝く夕陽は僕達を照らしながらも、着々と沈んでいく。それは即ち夜が近いことを示していた。 もはや川の音も、いつも乗っている電車の音も、生き物の音も聞こえない。この世界にはもしかして2人しかいないのかも知れない。自分の啜り哭く声のみが、辺りに響いていた。彼女は徐にふっ、と身体の力を抜いた。崩れ落ちそうな彼女の身体は、さながら霧のように手応えが無くなった。僕は慌てて先ほどまでよりも力強く抱きしめる。そうしないと彼女が何処かへ消えてしまいそうな気がした。 先ほどまでよりも、世界は夜に近づいている。太陽は連なる山々の陰にその身体の半分を埋めていた。「やめてくれ、沈まないでくれ。」 なぜそう呟いたか、分からない。ただ夜がもたらす闇はこの子を連れ去ってしまうような気がした。 太陽は、もう、沈む。 第1章 「何事も終わりってのは美しいものであると思うねん。」 高崎花奈は花瓶に刺さった一輪の薔薇に鋭い視線を刺していた。窓から柔らかに入り込む夕陽は花の左顔面を照らしていたが、当の本人は全く意に介していないようである。 先ほどまで次のテストの範囲がどうとか、この近辺に不審者が出没しているらしいとか、絵に描いたような日常的会話は一体どこへ行ったのだろうか。 「もうちょっと詳しく頼むわ。」 「生きる意志がある存在が消える寸前って、ある意味一番その意志が強く輝くと思うねん。それは眼に見えた輝きではなくて、何かこう、なんて言うんやろな、直近の死を理解しているからこそこの世に何か遺そうとしている様が、美しさに直結してると思うねん。あくまでも私の持論やし、流れ星や花には通らん道理やけど。」 「分からんで。俺らには汲み取れんだけで流れ星や花にも意志はあるかもしれんで。」 彼女はほんの少し僕の目を見て、そのまま俯き考え込んでいる様だった。 僕はこの横顔が好きだった。 思慮が巡り巡って、疑問と解決が連鎖する道中でコロコロと変わる表情は見ていてとても楽しかった。 ふと窓の外を見る。 太陽はゆっくりと山の陰に隠れようとしている。 「花、そろそろ帰ろか。」 少し茶色味を帯びた髪が彼女の目元を隠していた。先ほどよりも俯き加減が増している。 「帰るで。」 先ほどよりも大きな声で言うと、ようやく気がついたようだ。焦って帰り支度をしている。 花瓶に刺された薔薇を何気なくチラリと見た。先ほどの花奈と同じように、ほんの少し俯いていた。 第2章 彼女との出会いはとても非日常的なものだった。授業の一環でグループ研究があり、その研究を半ば強制で押し付けられた僕が、作成にあたって資料を借りに図書室に行った事が全ての始まりだった。夕陽が飽和した教室に、彼女がいた。夥しい数の本に囲まれた彼女は昔の文豪たちを想起させた。 「一体何を読んでるん?」 気づいたら声にしていて自分でも驚いた。 彼女は一瞬驚いたように目を大きく開けた。二重まぶたの下には黒い真珠のような大きな瞳が輝きを見せていた。 「…島崎藤村。」 「本が好きなの?」 「うん。」 本の山に目を移すと、てっぺんには太宰治の人間失格が置いてあった。 「これ、もう読んだ?」 「うん。一応。」 「喜劇名詞と悲劇名詞の当てっこする?」 「…あの遊びをするには、私の教養が足りひんわ。」 彼女はそう言うと、目線を本に戻した。 「明日もいるの?」 「…分からん、多分としか言えん。」 ここから紆余曲折を経て、僕らは親友となる。そこから自らが持つ恋愛感情に気づくまで、ほんの少し刻を要したが、もしかしたら図書室でその種は蒔かれていたのかも知れない。 第3章 「なぁなぁ。」 ファミレスの雑踏の中、僕の耳は花奈の声だけを拾った。昼飯とも晩飯とも取れない微妙な時間なのに何故こんなに混んでいるのだろうか。と思ったが、制服のグループが多い事から文化祭の打ち合わせだろう。あまりにも興味がなくてその時期が近づいていた事もすっかり忘れていた。 「どないした?」 「人は死んだらどないなるんやろか。」 少なくともこの現場では解決し得ぬ問いだった。しかし彼女はよくこの手の質問を突然投げかける。彼女の手元にはドリンクバーで注いできたコーヒーがあるが、どうやら冷めているようだ。 「花奈はどう思うん?」 そう問いで返すと、相変わらず彼女は考える姿勢に入った。頭を垂らした姿勢のままゆっくり答えた。 「死ぬ瞬間はな、多分一番世話んなった人が頭に浮かぶと思うねん。そんで、…」 彼女は突然黙ってしまった。 数十秒だろうか、それとも数分は経ったのか、それほどの時間、静寂が辺りを包んでいた。実際は他にも人がいるため静かではないのだが、何故か彼女の周りだけはそう見えた。 こうして彼女と二人でいる時間を、僕は無意識のうちに大切にしていた。それこそ死が待つ生涯で、彼女とこのような特異な時間を無限に過ごせる訳では無いのである。だからこそ、この気持ちに区切りをつけなければならない。いずれ終わるのであれば、少しでも楽しい道中にするべきだろう。有耶無耶にしてはならない。もともと今日はそのつもりで来たのだ。 「なぁなぁ。」 今度は僕から話しかけた。 彼女は相変わらず頭を垂らしている。 「ちょっとまって考えてる。」 「ほんの一瞬だけ思考を止めてくれへん?」 彼女はバッと頭をあげた。上目で僕の目を窺う。 「どないした?」 「あんな、僕な、花奈とこうしてる時間ごっつ好きやねん。」 「はぁ、そりゃどうも。」 「花奈とおったらオモロイねん。」 彼女はおどけた様子で頭を掻いた。 どうやら真意は届いていないようだ。ならもっと直球の方が良いのか。初めてだから勝手が分からん。 「貴方が好きです。」 表情ひとつ変わらぬ彼女だが、おもむろに先程までより更に冷めたコーヒーを手にした。コーヒーを持つ手が震えているように見えたが、気のせいだったかもしれない。 第4章 次の日の昼休みに彼女からLINEがあった。 「今日の18時半、三瀬橋にて!」 恐らく返事が貰えるらしい。結局「ほんの少し待って欲しい。」と言われあの日はお開きとなった。帰り道いつもより会話が少なく、明らかにいつもと異なる空気が流れていた。もしダメだったら…と考える脳内を振り払い、気が気でない顔でいつも通り授業内容を右耳から左耳へと通す。昼飯の味なども全くしなかった。弁当を作ってくれた母親に心の中で謝罪しつつも、早く時間が過ぎることを願った。全くもって生きている心地がしない。 そして放課後となった。待ち合わせまでは少し時間があるため一度家に帰って着替えた。無論、学校から家までの記憶はさほどない。 「告白ってこんな感じか。」 一人しかいない自分の部屋に向かって呟いた。その呟きは空中分解し反響する事なく消えた。生きているのか死んでいるのか分からぬ時間を過ごし、遂に家を出た。 第5章 高崎花奈はちらりと時計を見た。17時45分。 まさか彼から告白されるなど、思いもしなかった。 しかし彼からの告白で、自分の中に芽生えていた物が好意であると確認できた。私は、祐介が好きだ。 高橋祐介が、好きだ。 今思えばどうしてここまで時間が掛かってしまったのだろう。いつだって隣に居たのは祐介であったのに。彼に疑問や悩みをぶつける事で自らの精神は安定していたのに。そうやって長く話す事がずっと好きだったくせに。 今更過去の話をしても仕方がない。元々は疑問をぶつける以外の自己表現を知らない私が悪いのだ。 しかしこの橋の上から、始めよう。私からしっかり目を見て話をしよう。橋の欄干に手を置き、深呼吸をひとつした。手がカタカタと震えている。祐介はそれすらも優しく笑ってくれる。そんな気がする。そういう奴や、あいつは。 思わず綻んでしまった顔を慌てて正した。いや、もう正す必要もないのかもしれない。 夕陽は徐々に落ち、時計を見ると、17時52分を指していた。 時計を見ていたからか、前からくる物体の存在に一瞬反応が遅れた。緩やかな勢いで飛び込んできた物体はそのまま自分の身体を離れた。そこでその物体は帽子を深くかぶった人間である事が分かった。 燃えるような熱さを右腹部に感じ、そっと手を添えると深々と刺さったナイフと温かな血が溢れていた。思ったより冷静な脳内は様々な思考で満ちていた。お気に入りのワンピースなのにな、汚れ落ちるかな。あの人は誰だったのかな。そういえば不審者の話を担任がしてたっけな。 朦朧とする意識の底で、祐介の声が聞こえた。前から猛然と走ってくる彼の姿を見て、ホッとした。 言わなければならない事がある。彼に。すぐにでも。 「あんな、私も祐介が好きやで。」 最終章 みるみる彼女の身体から力が抜けていっているような気がした。顔は青くなっていく。血がポタポタと滴り足元には水溜りのようになっている。 「救急車呼んだからな、警察も呼んだからな。あとちょっと頑張れ。」 溢れそうになる涙を堪え必死に平静を装う。が、漏れる嗚咽や焦りは全く隠れていないようだった。 「あんな、私な。」 「喋るな。傷開いてまうがな。」 「祐介に、死ぬってどんなんか、聞いたやろ?あん時死ぬ瞬間、世話んなった人が、思い浮かぶって、言うたやろ。」 「そんな会話したな。分かったから喋るな。」 「あん時な、すぐ世話になった人って誰やろって考えた時、祐介の顔しか出んくてな、思わず恥ずかしくて、黙ってしもうてん。」 そうやったんか、とほぼ聞こえぬ声を出した。声よりも涙が止まらなかった。 「今までありがとうなぁ、ほんまに楽しかった。」 「アホかここで死ぬ気か?まだまだこれからやろうが。」 「今、私の頭ん中は祐介で、一杯やぁ。」 少しずつ、言葉が切れ切れになりだしていた。 「好きな人が頭ん中にいっぱいおるって、幸せやなぁ私は。」 「もうええて。喋んなって。」 「一言だけ、ちょうだい。私に。」 何を言っとるんや、と言いかけたが、その言葉を呑み込んだ。花奈の横顔が、あまりにも美しいものだったからだ。 涙を堪え、呟いた。 「誰よりも綺麗で、誰よりも好きです。大好きやで。」 祐介は力いっぱい花奈を抱きしめた。 彼女はニッコリ微笑み、痛いがな、でも、ありがとう、と口を動かした。太陽はその瞬間完全に沈み、世界は夜を迎えた。 そして、彼女は眼を閉じた。
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