だれか、彼女を

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* 「それじゃあKトンネルは?」――そう言い出したのは確かに私だった。  人をダメにするという触れ込みのビーズソファの柔らかさはとても優しく、もたれていると眠気と程よいアルコールが相まって、ともすれば夢の底に沈みそうになる。 「ああ、うん」と宙に浮いたような相槌を繰り返していると、呂律がやや怪しくなった幸恵が「聞いてる?」と不満げな声をだした。 「聞いてるって」  誤魔化そうとした声は、思ったよりも突き放すような温度でこぼれ、ヒヤリとする。けれど頬をすっかりピンク色に染めた幸恵は私のおざなりな返事など気にならない様子で、新しいチューハイのプルタブを引くと、楕円形のローテーブルの上にまたひとつ並べた。 エアコンから吐き出される冷気が六畳一間の空気を乾かしていた。目をしばたかせる。違和感を覚えた右目を擦ろうとして、コンタクトをつけたままだったことを思い出す。 「もうやだ、絶対今度こそ別れる。終わりにする」 「それができたら世話ないって」  22時過ぎにスーパーの袋いっぱいにお酒を入れてアパートを訪れた幸恵は、彼氏である吉村くんの愚痴を繰り返している。少なくとも同じ話を3回。それ以上は数えるのをやめてしまった。 吉村くんは誰とでも寝てしまう。友達の付き合いで行った合コンで記憶をなくして、バイト先の同僚の恋愛相談にのっていた流れで、失恋を嘆く後輩を慰めていたらいつの間にか。 ――本意じゃない、信じてくれ。言い訳はいつもきれいな水のように淀みなく流れるというのだから、いっそ関心してしまう。「ビョーキだよ、ビョーキ」と幸恵は言うけれど、そんな0.02ミリのコンドームよりも薄い言い訳に毎度のように丸め込まれる幸恵もまた、私から見れば立派なビョーキの感染者だ。  床に置いていたノートパソコンが突然低い唸り声をあげた。  ポテトチップスの塩を舐めとった指をティッシュで拭いて、キーボードを所在無げに押していく。文化人類学の課題レポートの締切は一週間後に迫っている。講義は欠かさず出席しているはずなのに、なぜだろう、パソコンの画面は真っ白いままで、私はそこに「あ」とか「う」とか適当な文字を打ち込んではデリートキーで消していく作業ばかりを繰り返した。 「まじで一回死んでほしい。呪われろーってかんじ」  ぽろりと落ちた幸恵のつぶやきをキーボードに落としてみる。液晶に浮かんだ「の」「ろ」「い」の三文字を見つめていると、ふと近場にある心霊スポットが頭に浮かんだ。 「それじゃあ、Kトンネルは?」  え、と顔を上げる幸恵に私は尚も続けた。 「Kトンネルにさ、吉村くんの物とか投げ込んでさ。そしたら霊的な何かが呪ってくれそうじゃない?」  冗談のつもりだった。けれど幸恵は「なにそれー、ウケる!」と手を叩いてひとしきり喜ぶと、「それじゃ今から行こう」と立ち上がった。 「え、今から?」  時刻は既に深夜零時を回っていた。難色を示す私に幸恵は「夜じゃないとお化けもでないでしょー」とよく分からない理論を振りかざした。腕を引っぱりあげられる。正座をしていた足がいつの間にか足が痺れていた。上手く立ち上がることができずに「やめて、ホントやめて」とへっぴり腰になる私を見て、幸恵はけたけたと笑った。
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