最終章 立ち止まるな、歩き出せ

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最終章 立ち止まるな、歩き出せ

「ねえ、マサフミくん。今度の土曜って暇?」 寝室に引っ込んでドアも閉めて。締め切り間際の駄文を何とか一気に仕上げて送ろうと四苦八苦してる俺に向かって、ひとん家のリビングで一体何して時間潰してるんだか、さっきから黙ってごろごろしてた板谷歌音が扉越しにのんびりと声を張りあげて尋ねてきた。 「暇。…かどうかは。今のこの仕事がちゃんと無事終わるかどうか。…に、よる。…な」 キーボードをぶっ叩きながらだから、口から言葉を出すことに集中できない。優先すべきは手先の方だから、勢い口先は意識がお留守になり台詞は途切れがちになる。板谷はお菓子を齧ってる、と思しき微妙な間のあとに呑気な声で要らん突っ込みを入れてきた。 「なんだ、そなの?じゃあ、さっさと済ませてよ、それ。今日中に終わる予定なんでしょ?」 「お前がこれ以上邪魔しなければ、…だけど。…ね」 これ以上やり取りを複雑にしたくないので、向こうに聞こえない程度の抑えた声で呟くようにそれだけ返した。案の定向こうは、え、何て?と訊き咎めてきた。 「何でもない。それより、いつまでうちにいんの。そろそろ帰ったら?今日俺、多分全然時間空かないよ。そこで一人で時間潰しててもつまんないだろうし。遅くなっても送ってく余裕ないから、悪いけど」 奴は多分学生か何か。平日に時間がある様子を見てると少なくとも会社勤めじゃなさそうだ。今日も午後過ぎてからふらりとやってきて傍若無人にドアチャイムを鳴らした。もちろん約束なんかしていない。事前の連絡さえも。 「雅文くん、仕事フリーだし彼女もいないし。どうせ暇でしょ。遊びに来てやったよ」 そう言って、その辺のコンビニで買い込んだと思しきスイーツを入れたレジ袋を差し出した。てっきり宅配便かと思ってつい、インターフォンに応じてしまった。俺は苦虫を噛み潰した味が口腔に広がる錯覚を感じつつ、眉をひそめて玄関先に突っ立ったまま断りを入れる。 「あのさ。フリーってことは別にいつでも暇とか時間の余裕があるって意味じゃなくて。逆に言うとオンオフの区切りがないとか、いつが暇でいつが忙しいとかかっちりと割り切れないってことだから…。つまりその、今はとにかく全然余裕がないんだ。出直してくれとは言いにくいけど。…まあつまり。次からはちゃんと」 事前にまず一報入れてくれるとありがたいんだけど。と言いかけてちょっと自信がなくなる。俺ってこの子にIDとかメルアドとか。なにか連絡取れるようなもの、教えたっけ? 「うん、わかった。じゃあ、次からはそうするようにするね」 奴は堪えた風もなくけろりとそう頷くと、俺の迷った隙を突くようにさっさと靴を脱いでするりと脇を抜け、当たり前な顔つきで上がり込んでしまった。全くもう。 板谷歌音とは行きつけのバーで知り合った。 ずいぶん前、あいつを連れて行ったことのある例の店だ。あのあとマスターからそういえば彼女、どうしてる?結婚正式に決まったらまた一緒においでよ。お祝いしたいから、と親切に尋ねられたのだが。 一瞬迷わなくもなかったが、結局正直に申告した。ここで適当にごまかすと今後も何かにつけて茜の話題が持ち出されるのは避けられないと思ったし。 「ああ。あいつね。結局、上手くいかなくてさ。別れちゃったよ、もうとっくに」 できるだけ何でもない顔つきで軽く受け応えたけど、それでもどこか向こうからすれば痛々しく見えたのかもしれない。マスターはそれ以上突っ込んで細かい事情を尋ねもせず、ただ大変だったねと言葉少なに慰めただけだった。 腫れ物に触るような接し方はありがたくなくもなかったが、その後は女の一人客が来るたびに何かと口実を設けて俺に引き合わせようとするのにはさすがに閉口した。茜を連れて行く前は異性に関心がない奴、と見做されていたのでまだよかったが。結婚を考えてた(と自称した)相手を紹介してしまったことで、否応なく自動的に異性愛者と認定されてしまったようだ。 板谷とも初対面で当然のように隣に座らされ、自己紹介をさせられた。
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