最終章 立ち止まるな、歩き出せ

13/19
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ
一瞬聞きそびれて思わずキッチンからリビングの方へ身を乗り出す。もう一度その名前を口にしてもらって、ルカリオ、ルカリオねと繰り返しつつスマホを手に取って忘れないうちにとメモしておいた。 そんな俺を見て板谷が屈託なく笑う。 「ほんとに可愛がってるんだ。わたしにはまだそんなのいないけど(俺にもいないよ。妹は未だに三重県の実家住まいの独身だ)、血の繋がった甥っ子とはいえそこまで可愛いものなのかな。まるで自分の子も同然だね。…ふふ、そう思って見るとこの子、まじで雅文くんによく似てるし」 何を思ったか再びしみじみと写真に見入る。 次の台詞に俺はつ、と一瞬肝が冷えた。 「もしかして、本当は雅文くんのお子さんだったりして。確か独身のはずって難波さんたちからは聞いてるけど。実は隠し子か何かだったりしてね?この子たち」 何を言い出すんだお前。 満面の笑顔で振り向いたその表情にも声色にも他意はない。そんなはずないと考えてるから気軽に口にしたのはわかったけど、それでもやっぱり頭の芯がぶわっと沸騰するほど焦る。あまりにも図星過ぎて。 ただ一方で、どこか冷静な自分もそこにいた。 脳の片隅のクールな部分でなるほどね、と変に感心する。誰が見ても茜そっくりで俺の面影はほとんど見て取れない、って息子のことを判断してたけど。それって茜の顔を知ってこその視点なのかもしれない。 あいつ本人を見たこともなければその面貌をそこに見てとることもない。だけど板谷としては俺の顔は見知ってるわけだから、竜の顔立ちの中に微かな気配を探し当てるのは意外に難しくないのかもしれなかった。茜の印象がそもそもない人間の目から限定の話かもだけど。 脳がそんな思考を辿ってる間に何故か口が勝手に開いて喉から声が出ていた。妙に平然とした自分の台詞が耳に届いてから一瞬のち、ようやくその内容を頭が解読する。 「そうだよ。そいつは俺の子なんだ」 「…そうなの?」 板谷の啞然とした顔。ああ、言っちゃった、と実感した瞬間どうしてか肩からすとんと余計な力が抜けた。 俺はもしかしたらずっと楽になりたかったのかもしれない。 俺が竜之輔の実の父だってことを知ってるのはこの世で他に茜と星野だけ。その二人はこの件については俺と同じで当事者の立場だから。全くこの話に関係のない第三者と我が子のことを語り合う機会が俺にはない。 全然表沙汰にしたい話でもないし、それでいいってずっと思ってた。だけど頭で考えるより先に胸の奥から勝手に飛び出してきたようなその言葉から、俺は自分が誰かに何もかも吐き出して楽になりたかったんだ、って改めてわかった。 俺を非難したり断罪したりしない、利害関係のない中立的な立ち位置の人間に事実を打ち明けたい。そうしたら半分肩の荷が下りて、ほんの少し気持ちが軽くなれるのに。 どうやらそんな願望を抱えてたとは。と理解した時にはもう、意外に落ち着いた声で淡々と口がオートで説明を開始していた。 「…俺はどうしても、あいつとの間に子どもが欲しくて。向こうは真剣に避妊してたけどそれを無理に…。結果、子どもはできたけど。俺を信頼できなくなったあいつは最終的に別の男を選んだんだ」 説明が難しいな。この言い方だと茜が俺の正式の彼女だったにも関わらず、妊娠した状態で俺を捨てて新規の男に走った薄情者みたいに聞こえるかも。 だけどそもそも別の男と入籍しつつ俺と関係を続けてたことをどう説明していいかわからない。それ自体どうなの、って受け止めるかもしれない。今の若い子、意外にその辺の考え方柔軟性ない奴もいるし。 せめてもと声を明るくして、別にこれは暗い話じゃないんだって印象を与えようと努める。 「今ではその旦那と一緒に幸せに暮らしてる、俺の子もその弟も。家族ぐるみで付き合いも続いてるし、子どもたちもちゃんと俺に懐いてくれてるよ」 俺は微妙に視線を外して話してるけど。板谷はじっとまっすぐ俺の顔を見つめてこっちの表情から何かを読み取ろうとしてるのがわかった。 「…この子たちは。雅文くんが自分たちの本当のお父さんだって、知ってるの」 「二人ともじゃない。上の子だけだよ、俺の子なのは。下の弟は正真正銘夫婦の間に生まれた子だから。…いや、知らないよ。知らせるかどうかもまだ決めてない。将来本人が疑念を持ち始めたら教えた方がいいだろうけど、何も疑う様子がなかったらあえて知らせなくてもいいのかなって。この前向こうの父親とも少し話したんだけどね」 板谷はじっと表情のない目で俺を探るように見続けた。 「…仲いいんだ。彼女をお腹の子ごと奪った相手なのに。どうしてそんな風に何事もなかったみたいに穏やかに接してられるの?」 「だって。どう考えても俺がしたことの方が酷かったからさ。向こうの旦那は別に悪くないよ。むしろ、母と子を丸ごと引き受けて、全部受け入れてくれて。今でもずっと愛情を注いで大切にしてくれてるんだから、やっぱり感謝しかないよ」 俺は肩をすくめて正直に言った。考えようによっちゃ、結婚こそしてなかったけど十年来の付き合いの女を交際0日婚で掠め取るようにすぱっ、と持っていかれたとも言えるけど。 星野の奴は茜が俺と付き合ってることもその時知らなかったわけだし。茜の方は茜の方でどう考えても俺がただのセフレで、独占欲とか愛情なんかあるわけない(あったら見知らぬ男たちの集団に自分を好き放題やらせるなんてプレイはするわけない)、と認識してたんだから、その時点では。 結局は好きだとか愛してるとか俺だけのものでいてくれとか、十年もそばにいたのに一度も仄めかす勇気さえなかった俺がヘタレだった、としか言いようがない。…気が。 板谷はそれまであまり見たこともない生真面目な表情を崩さず、どこか真剣な調子で更に尋ねてきた。 「雅文くんがした『酷いこと』、って、何?…彼女が嫌がったのに。子どもを作ったってこと?」 「まあ。…それも。多くは説明できないけど」
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!