最終章 立ち止まるな、歩き出せ

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「今ではあいつも俺とのいた頃の醒めた顔つきじゃなくなって。旦那や子どもの前じゃ打って変わって素のままで、感情表現も言動も見るからに活き活きしてきたし…。どうなることかと思ってたけど、こうしてみんな幸せになったわけだから。終わり良ければまあいいか、ってことで。だから、うん。不満はないよ」 「全て良し、じゃなくてまあいいなんだ。ちょっと不満なくもないじゃん。完全に納得はしてないよね」 ぼそぼそと傍から突っ込むな。せっかく俺が上手くまとめて話に蹴りをつけたところなのに。 「ていうことは。彼女さんは、旦那さんのことは好きになったってこと?誰のことも好きになりそうもない人みたいに言ってたのに。雅文くんだってもっと最初から素直になれば可能性なくもなかったんじゃないの」 「そういうわけじゃないと思う。誰を好きになって誰を好きにならないかは。本人にも決められないし、どうしようもないんだよ。そのうちわかるようになると思うけど、板谷さんにも」 俺はそれだけが心を暖めてくれるものみたいに、あいつのお腹から出てきた小さな兄弟の姿に視線を当てつつしみじみと答えた。 「初めからほんとは不安だったんだ。家を出たいからただ共同生活するだけ、シェアハウスみたいなもんだからって言ってる割に。相手が休日に何してるかやきもきしたり、ちょっとした言動に凹んだり舞い上がったり…。そんな反応俺に対しては見せたことないじゃんって。合理的な契約関係って言ってる割には怪しいなって思ってた。それでこっちもだんだん焦ってきて。自分でもどうかしてる、って後から思うくらい暴走し始めて」 あんまり細かいことは思い出したくない。俺は軽く肩をすくめて、額を棚に戻して冗談めいた口調で結論づけた。 「だから、まあ、薄々わかってはいたんだ。あの旦那はあいつにとって特別なんだなって。昔の知り合い同士が久々に再会して交際0日で入籍して、お互いのことは何も知らなくても。十年そばにいて何もかも知り尽くした俺が敵わないくらい深く結びつき合える。そういう、不公平で理不尽なもんなんだよ、結局。恋愛とか結婚なんてさ」 「…うー。ん」 不承不承、といった様子で腕組みして唸ってるから理解不能なのかと思ったら。板谷は俺に背を向けたままきっぱり顔を上げて、いきなり断言した。 「なんか、わかる気がする、そういうの。ひとを好きになるって筋が合わないっていうか。あんまり合理的でも理性的でもないものだよね。自分でもどうして?してることや考えてること無茶苦茶じゃんって思ったり」 「そうだな」 俺は素直に頷きつつ、そうか、こんなガキっぽいなりだけどこの子も恋くらいは知ってるんだな。まあ彼氏くらいはいそうな様子がなくもないし。本人と同年代くらいの男から見ればこれでもちゃんと女に見えるのかもしれない、なんて失礼なことをこっそり考えた。 今日は結んでない肩まで下ろした髪がぱっと広がるくらい勢いよく俺の方に振り向いて、にっと笑いかける。 「でも、大丈夫。雅文くんだってまだそんな歳でもないんだし。きっと次があるよ。前回の教訓を活かして、今度好きになった女の子に対しては当たって砕けろの真剣勝負してみれば。それでいいんじゃない?」 冗談じゃないよ。俺は苦笑して肩をすぼめてみせ、そんな台詞を軽くいなした。 「いや、俺はもういいよ。二度もあんな思いするのはぞっとしないし、そんなエネルギーももうないや」 それでもあの十年の間には充分、楽しいことや忘れたくない幸せな思い出もあった。誰かと一からやり直してまた苦しい思いをしたり相手をがんじがらめにしたい欲求に悩まされるよりは。あいつとの記憶を大切にして、竜と鋼の成長を静かに見届けたい。 何故か板谷はそれで納得せず、ぷっくらした頬っぺたを更に膨らませて下から俺を見上げた。 「えー、そんなこと言って。意気地ないなぁ。新しい恋を怖がってたらなんもできないよ。大体雅文くんまだ若いじゃん。…えーと、アラサー?くらい?」 十年以上歳上になっちゃうと年齢よくわからないんだな。まあ、その気持ちはわかる。俺だって新社会人と大学生と高校生は正直ごっちゃで、上手く判別できない時があるし。 「もう三十四だよ。全然アラウンドじゃないから、既に。この歳になるとね、新しく自分を変えるのももう面倒だし。億劫なんだ。だから、俺のことは心配するに及ばないよ。自分こそまだまだこれからだろ。楽しくてわくわくするようなことがこれから板谷の前にいっぱい、待ってるんだよ。羨ましいな若いって」 口先だけでお愛想に最後付け足す(嘘。ほんとはもう一度若い頃に戻りたいなんて微塵も思ってない。あんなこと、最初から全部繰り返すなんて。想像するだにまじでごめんだ)と、話を切り上げて奴に背を向けキッチンへと戻ろうとする。後ろから不服そうな板谷の声が雪つぶてのように飛んできて後頭部に当たった。
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