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「ふぅん、じゃあ彼女のことはもうさすがに吹っ切れたってわけね。そのこと自体は喜ばしいけど。そろそろ前向きに、将来のことを考え始めた方がいいんじゃない?川田くんももう三十半ばになるんでしょ」
そういう御本人は一体いくつなんだ。年齢不詳のやけにつるんとした顔を横目に、俺はきっぱりと断言した。
「まだ三十四です、今年。四十になるまであと六年もありますよ」
「そこがタイムリミット?子ども作るんなら男だってなるたけ早い方がいいのよ。男は出せるうちはいつまでも子どもできるなんて幻想なんだって。作り出す精子の質が落ちてくから妊娠の確率が下がるのは女性の年齢とそれほど変わらないんだってよ。知ってた?」
「知ってます、それ。その記事読みました、ネットで」
目の前に差し出された何杯目かのグラスを引き寄せて素っ気なく受け流す。ていうか、ネット配信記事は仕事の主戦場だから、俺の。ページビューが稼げてる記事はひと通り目は通してる。
「だからってあんな歳の離れた子。向こうにも失礼でしょ、こんなおっさん。全然そんな気ないと思いますよ。同世代の男友達いっぱいいるんでしょ?その中から選ぶでしょ、普通」
「まあね、わたしもそう思うけど。でもあの子、最初の頃こそ友達と連れ立って来てたけど。最近はいつも一人で、ぶらっと立ち寄ることが多いみたいなのよね」
一人で顔を出すようになってからは曜日も時間帯もまちまちなので、近所に住んでるかこの近くでバイトしてるか何かなのかも、と難波さんは穿った意見を開帳した。
「肩肘張らずに気軽にちょっと顔見せる、って様子だから。案外連れがいなくてもどんどん物怖じせずに行動する子かも。オタサーの姫みたいにがっちり友人連中にガードされてるタイプじゃないなら、川田くんにも可能性あるよ。話してると結構頭の回転も悪くないし」
俺はグラスの縁に口を当てつつ曖昧に唸った。
「うーん、…友達というか、知り合いになる分にはいいと思うけど。それ以上のこと期待されてもね。…まあ、ないです。間違いなく」
無論こっちも向こうも、だ。それにあえて茜から遠いタイプ、って言うに事欠いて。ここまで極端に違うの連れてくる必要ある?
その時は呆れつつそう考えてた。
しかし。その後彼女とこうやって関わりができてから改めて思い直してみると、この時漠然と思ってたほど二人がかけ離れたタイプとは言い切れない、って気も最近はしてるかも。
リビングから特に返事も返ってこないと思って油断してたら、きぃ、と微かにドアの鳴る音がして寝室の中を奴がそっと覗き込んできた。
「…雅文くん。あのさ、わたしね」
ほら、こういうとこ。俺はちょっと呆れて顔をそっちに向けて抗議した。
「今日はぎりぎりだって言ってあるだろ。そっちで待っててよ。こう中断されたら終わるもんも終わんないよ」
「あそうか」
奴は首を縮めてぱたんとドアを閉めた。結局何が言いたかったんだ。むしろこっちはもやもやする。
俺がどう感じるか、どう受け止めるかは基本あまり気にしない。いつも自分のペースで思う通りにさっさと行動する。傍若無人なところはある意味そっくりだ。
まあ、茜の場合は必ずしもこっちに意識が向いてなかった。ってとこが最大の違いかな、残念ながら。
すっかり集中力の削がれた俺は誰にも見られていない寝室の中で軽く肩をすぼめた。板谷歌音だってその振る舞いは一見俺に向かってる風に見えてるけど。俺自身が奴のことをどう思うかはほとんど気にかけてるようではないから。根本的にこっちに関心があるわけじゃないのは同じと言えば同じか…。
俺は観念して立ち上がり、ドアの方へと向かった。奴が何を言いたかったのか一応聞いておいた方がよさそうだ。結局何だったのか、微妙に気になってどうにも頭が切り替えられない。まあ、目の前の仕事から逃避したい気持ちが全くないとは言い切れないが。
ドアを開けると、帰り支度を始めてたと思しき板谷と目が合った。
「なんだ。…帰んの?」
奴はさっと立ち上がり、その辺に適当に置いてあった上着を拾い上げて羽織りながらさばさばと答えた。そういえば、ハンガーも出してやらなかった。ほんとに出迎えた時は気持ちの余裕なかったんだな、俺。と今頃になって反省する。
「このあと用事あるから。その辺で適当にご飯でも食べて、そのまま行こうかなって。…お仕事邪魔してごめんね。もしそれちゃんと終わって、土曜日時間できたら教えて。一応連絡するね」
「夜から用事ってこと?」
バイトか何かかな。思わず訊き返しながら自分も上着を探す。
てことは、俺は既にこの子に連絡先を教えてるのか。まあ何かっていうとこうやって家に直接顔を出すようになってるわけだから。それに較べてIDやメルアドを知られることの方が剣呑ってわけでもない。むしろ、住んでるとこの方がよほど個人情報な気がするし。
俺は壁にかけてあったハンガーから自分のジャケットを引っ剥がし、手に取ってから奴の方に顔を向けて声をかけた。
「俺も出るよ。てか、送りがてらその辺で飯食おう。そっちが俺と飯なんか嫌じゃなければ、だけど」
「嫌なわけないじゃん。雅文くんが時間ありそうならお喋りしてご飯でも一緒に食べてから仕事行こうかな、ってつもりでここに来たのに。最初から」
特に嬉しそうな顔もせず当たり前みたいにけろりとそう言ってのける。つまり、俺は結局奴の思い通りに振る舞ってたってことか。
何となく俺の負けみたい。肩をすぼめて奴の傍らをすり抜け、さっさと玄関へと向かう俺の背中にやや心配そうな板谷の声がかけられた。
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