最終章 立ち止まるな、歩き出せ

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「だけど。お仕事まだ終わってないんでしょ?わたしのこと気にしてるんなら大丈夫だよ、まだ全然遅い時間でもないし。ご飯一人で食べるのも割に平気な方だから。…今から出かけたりしたらいよいよ間に合わないんじゃない?」 俺は振り向かず諦めきって首を振った。 「いいよ、そっちのせいじゃない。どのみちさっきから全然進まなくて煮詰まってたんだ。むしろちょっと外に出て、気分転換した方がいいのかも。…何か食べたいものとかある?バイトあるなら、この近所で済ませた方がいいのか?」 始めの頃は何回かバーで顔を合わせただけで深く知り合うこともなかった俺たちだったが、その後だいぶ経ってからたまたま店の外で鉢合わせることになった。 「あ。…えーと。川田、さん」 やっぱりうろ覚えだったんだな。そういうこっちもまだ彼女の名前は脳にインプットされてない。むしろ苗字覚えてるだけ向こうのが大したもんだ。と呑気に考えてた俺はふと下に目線を落として仰天した。 「君。…大丈夫?どうしたの、それ」 「あ。大したことないんです、見た目より」 そんなことない。短めのスカートから覗く膝小僧がべったり血染めになって、ストッキングが思いきり破けてる。 時間は夕方。いつもより綺麗めで雰囲気のある服装。きっちり化粧もしてるみたいでだいぶ感じが違う。もしかしたら今からデートとかなのか。こういう女っぽい格好したら同年代の男からは結構好評なんだろうな。俺からしたらそれでもやっぱり、小洒落ておめかししたちっちゃなお嬢ちゃんだが。 いやしかしそれどころじゃ。うっかり品定めに走った自分を内心で叱咤しつつ、気を取り直して痛そうに顔をしかめてる彼女に近寄った。 「あんまり大丈夫そうに見えないよ。病院行く?この辺だと、…どうなんだろ。普通の内科じゃ駄目なのかな。整形外科とか?それとも皮膚科とかか…」 ここに越してきてもう十年以上だけど、医者にかかったことなんかほとんどない。とりあえずスマホを取り出して周辺の情報を検索しようとすると、彼女は腕を伸ばして俺の腕に掴まりつつ片足に重心をかけて立ち、首を振った。 「見た感じ派手にやっちゃったけど。擦りむいたから、出血が多く見えるだけだと思う。それより近くに薬局ないですか?絆創膏、普通のサイズのしか持ってなくて。…ストッキングも買い替えないとだし」 親しくもない女の子にいきなり腕を掴まれてちょっとたじろいだが、痛い方の脚に重心をかけるのが辛いようなので致し方ない。俺は軽く彼女の肩を支えて一瞬思案した。 「薬局、ここからだと少し遠いかな。…あの、別に変な気はないから。もし信用してもらえるならだけど。俺の家、ここからすぐだし、膝用の絆創膏とストッキングの予備がある」 「…え」 さすがに怪しい気がしたらしい。軽く眉根を寄せたように見える彼女に、俺は慌てて釈明した。 「絆創膏はあの、ちゃんと理由があって。消毒液を使わないで清潔にして密閉する方式が治りが早い、って話を聞いたから。実際どうなのかな、って気になってて、機会があれば試したいと思ってそれ専用の絆創膏を買ってあるんだけど。なかなか怪我ってしなくて、この歳になるとさ」 湿潤療法については茜から聞かされた。以前に会った時、竜之輔が保育園で怪我をしたらしく見たことのない半透明の分厚い絆創膏をしてたので尋ねたら、今はこの方が治りが早くて傷跡も残りにくいってことになってるらしいよ、と説明してくれたのだ。 だけどそう言った本人も未知のことで半信半疑らしく、ほんとにこれで早く治るのかなあと疑わしそうに首を傾げてたのでこっちもなんだか気になった。 その後、ちゃんと綺麗に治ったよと写真付きで報告も受けたけど、チャンスがあったら自分の目でも確かめてみたいなと思って専用の絆創膏を調べてネットで購入してみたのだ。 「実際に自分で一度使って体験記事を書けたらなと目論んではいたんだけど。さすがにわざと怪我する気にもなれなくて結局そのまま…。だから、勿体ないしもしよかったら使ってもらえたら。それに傷口も早く洗った方がいいよ。黴菌とか入る前に」 薬局では多分水道は貸してもらえないと思う。まあ、よく知りもしないおっさんがチャンスとばかりに若い子に付け入ろうとしてきてるな、としか思えないだろうけど。とちょっと口ごもると、彼女はポニーテールにしたさらさらの髪が大きく揺れるほどきっぱりと首を横に振った。 「それは心配してないです。マスターと難波さんから、川田さんのことはよく聞いてるから。…そしたら、ご迷惑おかけして申し訳ないですが。ちょっとお邪魔させて頂いていいですか。すみません、お忙しいところ」 今思い返すと、その後の傍若無人ぶりが信じられないくらいちゃんとした態度だった気がする。とにかくそのときは。 「別に、忙しくないよ。たまたまコンビニ行った帰りだったんだ。ほら」 弁当やらパンやらお茶やら、適当なものを放り込んだレジ袋を軽く持ち上げて見せる。料理は割とできる方だと思うけど、あいつと別れたあとはすっかり自分のためだけに何か作るのが面倒になってしまった。最近はだから、スーパーより専らコンビニだ。 彼女は体重をかけづらそうに不安定な足取りで歩きながら眉をひそめる。 「コンビニ近くにあるんだ。だったら絆創膏とストッキング売ってますよね。ご迷惑かけるのも何だから、そっちに行った方がいいかな」 「うーん。でも、ちょっと歩くよ。大通り越えた先なんだけど、近くに歩道橋しかないし。ここからなら正直うちに来る方が早い」 誘惑してると思われたら嫌だな。客観的な事実を述べてるだけなんだけど。何の気なしに口にしてから慌てて付け足した。 「そんな血だらけで歩いてたらすれ違う人びっくりすると思うけど。とにかく早めに水道のあるとこ行った方がいい。それにそのままじゃ、どっちみち絆創膏貼れないと思う。俺は場所貸すだけだから。嫌なら別に手伝いもしないし」 彼女はふ、と頬を緩めて俺を見上げた。そんな表情がいつもよりちょっと大人っぽく見える。 「だいじょぶです。川田さんのこと怖いとか思いません。あなたみたいな人から見たら自分は全然ガキだって知ってるもん。…あの、久しぶりにヒールの靴履いてみたんです、ちょっと必要があって」 痛めた方の脚を軽く持ち上げて靴を示してみせる。いや、無理しなくていいから。また転ぶぞ。 「そしたら見事に段差でこけました。なんかねぇ、バランスが取れないの。これってほんとに人間の履くものなんですかね」 やっぱガキだ。 そのくらいの会話が交わされた時点で、あっという間に俺の住むマンションに着いた。 「ほんとに近いんだ。あのお店、お家のご近所だったんですね」 結局ほとんどお互いのことを知らない者同士、腕に掴まらせながらの移動になった。俺は身体がくっつき過ぎないよう気をつけながら彼女をエレベーターに誘導しつつ答える。 「そう。何となく時間がぽかんと空いちゃった時とかに近くに立ち寄れるとこがあるといいな、と思ってた時に見つけたから。あんまり混んでることもなくて俺にはちょうどいいんだ。マスターからしたらもっと客入って欲しいんだろうけど」 「はは。そうかも。わたしたち初めて入った時も、五人で座れる店ってその日他になくて。あちこち探してやっと席あった!って感じだったんですよ」 彼女も笑う。甘いような匂いのする髪が顔の間近に感じられて、なんか微妙な気分になった。 「まあ。…裏通り沿いでちょっとわかりにくいところにある店だしね」 ごまかすように軽くその話題を片付けて、エレベーターを降りて自室に向かった。
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