最終章 立ち止まるな、歩き出せ

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風呂場のシャワーで慎重に膝を洗ってやって水気を拭き取り(血を流してしまえば本人の言った通り、ごく普通の浅い擦り剥き傷だった。ただ範囲が広い)大きめサイズの密閉式の絆創膏をぺたんと貼りつけた。それから奥から未使用のパッケージに入ったままのストッキングを出してきて渡す。 「色合いはよくわかんないけど。もっと暗い色のがよかったのかな」 彼女は袋からそれを出して確かめ、首を振った。 「こうなったらもう色は何でも…。今から買いに行くのも間に合わないし、助かります。あの、後日新しいのを代わりに買ってお持ちしますね」 「いやいいよ。俺はもう必要のないもんだし。代わりがあってもどうしようもない」 まさか俺が履くわけにもいかない。自分が変態なのは重々承知してるけど、これは方向性が違う。 彼女のあどけない顔が軽く疑わしげに翳った。 「これ。…どうして、川田さんのお家に?」 怪しい奴だと思われたのか。別に使用済みでもないけど。それとも、パンスト相撲に使うとか?俺はお笑い芸人じゃないぞ。 「前ここに通ってた奴のだよ。いろいろ置いたままで急に会わなくなっちゃったから」 とにかく下着とか服とか、場合によっては帰りは使いものにならなくなるような成り行きもあったから。今改めて考えると集団でとんでもないことしてたんだよな。俺はつい軽く肩をすぼめた。もうこの歳になると、何が起こるかわからないあんな無謀なことはする気になれない。 そんなわけで、いつ何が駄目になってもいいようにひと通りの予備が常備されていた頃の名残りだ。別れる間際はもうそんな無茶苦茶な行為も久しくしてなかったから、万が一の時用にあいつの下着やストッキングの新品が備蓄されてたこともお互いとっくに忘れてて返しそびれた。 その後、関係も感情もすっかり落ち着いて星野とだけじゃなく茜とも普通にやり取りできるようになったけど。そんなものが残ってることは今の今まで思い出しもしなかったから。 自然とどこかしみじみした顔つきになってたのかもしれない。彼女は不意に訳知り顔になって、ストッキングの袋を受け取りながら頷きつつ呟いた。 「ああ、はい。川田さんがふら、…お別れした彼女のだったんですね。わかります」 お前今『振られた』って思いきり言いかけたな。しかし文句を言ったり抗議する気にはもちろんなれない。単純に事実だ、ってこともあるし。 絶対覗いたりしないから、と完璧な自信を持って断り風呂場の脱衣室のドアを閉めて出て行くと、彼女は疑うなんて頭の端っこにも浮かばない、といった顔つきで当然のようにそこで新しいストッキングを履いて出てきた。 傷口を洗う前に脱いであった破けたストッキングをくるくると手早く丸めてそれを空いた袋の中に突っ込む。ちゃんと自分で処分するつもりらしくバッグの中にそのまましまった。俺は口出しせずにスルーする。それはこっちで捨てとくよ、なんてうっかり言って変態認定されたくはない。 「そしたら。本当にありがとうございました。何から何までお世話になって。…あの、改めてまたお礼に伺いますね」 「そんなのいいよ。家にあるものを出しただけだから。どっちも使う予定もないものだったし」 ぴょこん、と玄関先で勢いよく頭を下げた彼女を見て元気な小学生女子みたいだなぁ、と漠然と考えながら適当に受け流す。彼女は小さく首を傾げて生真面目な顔で思案するように応じた。 「あ、そうか。そういえば、この絆創膏での傷の治り具合が知りたいって話でしたもんね。そしたらせっかくだから、経過、ご報告します」 「ああ、それは興味ある。確かに」 俺は軽く相好を崩して頷いた。 「そうだな、じゃあ時間のあるときにでもまたあのバーに顔出して。それで上手く顔合わせられた時にでも確認させてくれたらありがたいな。結構擦り剥いてたし、あれで綺麗に跡もなく治ったらすごいよね。…じゃあ、お大事にね。気をつけて、一人で大丈夫?」 「はい。この近くだし、もう痛みも治まったから。傷の手当てもして頂いて、ありがとうございました」 にこにこと手を振ってエレベーターへと消えていく彼女を見送りながら、そういえば名前確認しそびれた。ってことと、この時間からこの近くで用事って何だろ、やっぱりデートなのかな。どうやらあの子、彼氏はちゃんといるみたいだよってマスターと難波さんに報告しておかなきゃ、なんてことを徒然にぼんやりと考えていた。 そんなわけで、てっきりお礼とは言ってもバーで顔を合わせたときのついでだとばっかり思ってたから。ほんの数日後の昼下がり、インターフォンが元気よく鳴らされてそこから若い女の子の明るい声が飛び込んできたときにはすっかり彼女のことは忘れてて、何事かと一瞬戸惑ってしまった。 「ストッキングの替えはやっぱりやめにしました。川田さんのパンツの替えとかにしてもよかったんですけど」 差し出してきたのはちょっと有名な洋菓子店の箱。俺は気圧されてそれを受け取りつつぼそぼそと応じた。 「まあ。…もらったらもらったで。別に穿くけど、それは」 新品でさえあれば誰からどんな成り行きでもらってもどうということはない。パンツはただパンツだと思う。
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