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でも。ストッキングの男性版といったら、普通に靴下じゃないかな?まあどうでもいいことだけど。
仕事中といえば仕事中だったけど、まだそんなに切羽詰まってもいなかったから一応彼女にお茶でも、と声をかけると当たり前のようにけろりと頷いてさっさと上がり込んできた。よく知らない男性の部屋に入るのはちょっと…、って感覚があんまりないみたいだ。大丈夫なのかなこの子。俺、実際変態なんだけど。
まあでも下心があるかって言えば正直かけらもないし。この子からしたら必要に迫られてとはいえ前回既に入ったことのある家だからどこか安心感があるのかもしれない。他の男の家にはこんな簡単に入ったら駄目だよ、と機会があったら念を押しておいた方がいいなと思いつつ彼女の後ろから奥へと進んだ。
何となく成り行き上、お持たせをそのまま出すことに。キッチンでぱか、と箱を開けたら繊細な作りの可愛らしいケーキがちんまりと二つ並んでいて、どうやらこれが正解だったことがわかる。どうせ俺のプライベートのことはマスターたちに散々聞かされてるわけだし、彼女さんの分もってつもりじゃないのは明らかだ。
「コーヒー紅茶、どっちがいい?」
「あ。…すみません、じゃあ紅茶で」
リビングに通されて、テーブルに置かれた開いたままのパソコンが視界に入ったのか彼女がぼそっと呟いた。
「お仕事中だったんだ。そういえば川田さん、フリーのライターさんなんですよね。今お邪魔じゃなかったですか?」
改めて思い返すと最近はそんなこと全然訊かなくなったな。こっちが忙しいかろうが暇だろうがお構いなく、上がり込んで勝手に寛いでは自分のタイミングでしゅばっと帰っていく。考えてみたら、うちは今あのバーの代わりに時間潰す場所になりかけてるのかも。午後過ぎとか早い時間には店まだ開いてないからな。
俺は湯気の立つ二つのカップを手に、リビングへ入りつつ受け応えた。
「ティーバッグしかなくて悪いけど。…別に、大丈夫だよ。書くテーマは決まったからこれから取材をどうしようかなぁって考えてたとこだったんだ。実際に記事を書く時間よりその前準備の方がかかることも多いしね。どこまでが仕事の時間でどこまでが空き時間か、曖昧なとこもあるし」
彼女は真剣な顔つきで首を振った。
「でも、すごくやり甲斐ありそうで楽しそう。どんな記事書いたりするんですか。やっぱり専門分野とかあるの?」
「いやあ…、俺は何でも屋だから。媒体に合わせて大抵のことはこなすよ」
エロ系の記事も書いたことあるけど、そんなのこの子に見せてもしょうがない。俺はちゃちゃっ、とパソコンを操作して過去の記事をいくつか出してみせた。
「ふぅん、ほんとにいろいろなんですね。…あ、実際にやってみた系のもある。あとはメーカー違う同系統の商品の比較とかも。…この記事、わたしネットで読んだことあるかも。気がつかないでこれまでも川田さんの書いたもの、目に入ってるのかな」
俺はこそばゆい思いで肩をすぼめた。
「検索サイトのネットニュースに出たりするとやっぱり読まれやすくなるよね。俺はフリーだから、一応編プロに籍は置いてても専属じゃないし。機会があれば何にでも書くことにしてるよ。だからネットだけじゃなくて紙の媒体でもチャンスがあればもちろん書くし…。おかげさまで何とか十年近く続けてるから。ようやく生活も安定してきたかな、最近は」
「羨ましいです、わたしなんかから見たら。好きで得意なことして食べていけるなんて」
学生さんならそりゃ、そう思うよな。熱を込めてそう言われて適当に言葉を濁す。
「うーん、…試行錯誤の期間も長かったから。誰にでもお勧めできることでもないよね」
別にそのせいで茜に逃げられたとは思わないが。ずっと経済的に自信がなくてプロポーズというか、積極的に自分から結婚の方向へ持っていけなかったことは確かだ。
ちょっとしんみり思い入ってるうちに彼女は勝手にスクロールして記事に最後まで目を通していた。
「結構個性的な文体なんですね。エッセイとか書いたら合いそう。あ、署名記事じゃないですか、すっごい。…川田さん、下の名前『雅文』くんなんだ。じゃあこれからはそう呼ぼうっと」
…何で?
以来あっさりと、俺は彼女にとって『雅文くん』になった。
こっちはまだ奴の苗字さえ確認できてないというのに。それにしても、君ってなんて名前だっけ?とも今更訊けず、結局はバーのマスターと難波さんに尋ねる羽目になった。二人は呆れて、ずいぶん前に教えたはずだよと口を揃えて言うのだが。だってねぇ。
「ここでしか会わない子の名前、いちいち覚えてらんないよ。今まで紹介された女の子たちも結局その後顔も合わせないことがほとんどだしさ」
「ふぅん、じゃあどうして歌音ちゃんのことは?彼女最近、以前ほど頻繁にここには顔出さなくなった気がするけど。実は外で会ってるってわけ。こっそり付き合い始めたってこと、二人?」
難波さんに問い詰められてぶるぶると首を横に振る。
「まさか。全然そんなんじゃないよ」
いくら何でも歳が違い過ぎる。それにこっちだけじゃない、向こうも。俺を男性として意識してる様子は全くないし。
逆に言うとそれだからこそ、こんな風に気が向いたときにふらりと気ままに顔を出して憚ることもないんだろう。
「…今日はごめんね。最初から雅文くんは仕事で忙しい、って言ってたのに。別の部屋にいれば邪魔にはならないだろうとか勝手に考えて。結局こうやって、ご飯まで付き合ってもらう羽目になっちゃって」
食事を済ませた帰り道。夕方なのに急にすっかり暗くなった道を二人並んで歩きながら、板谷がしんみりと謝る。
「いつも雅文くんが怒らないし寛容だからってわたし、調子に乗ってるよね。結局迷惑になったら駄目なんだって。頭ではわかってるのになぁ」
そんなしおらしい言い方されたら。こっちもつい、答える声が甘くなる。
「いいよ、別に。ほんとに煮詰まってたんだ、さっきは。あのまま部屋で頭抱えててももういいもの出てきそうもなかったから。それにどうせ飯は食わなきゃいけないんだから。それを今一緒に済ませたってだけで」
「うん」
板谷は言葉少なに頷いた。なんとなく暖かな空気が辺りに漂ってるような。季節はもうそろそろ冬なんだけど。
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