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序章:彼女の名は
――『誰よりも君を愛している』
彼は透き通るような青空色をした瞳を真摯に向けそう告げた。
その言葉を聞いた瞬間、心臓は張り裂けそうな程に鳴り響き、顔に熱が集まるのを感じた。
気付かぬ内に育ち気付いてしまった感情。叶うことが無いと諦め、鍵を掛けて心の奥に仕舞った想いと同じものを、彼は差し出してくれたのだ。――
「あ~ん!キュンキュンするぅ~っ!!」
イシュリィは思わず声をあげた。
寸前まで追っていた文字列が並ぶ小さな本を胸に抱くと、足を上下にバタつかせる。
「真剣にこんなこと言われたらヤバいよ!しかもやっと両思いじゃん!も~めちゃくちゃキュンキュンするうぅ~っ!!」
ニヤける顔を隠すように、イシュリィは本を口元に当てる。
『真実の愛2』と書かれた表紙の本は、彼女のマイブームだ。
金髪碧眼の美青年王子が遠乗りをしている際に賊に襲われ命辛々に逃げ延びたものの、森の中で力尽きたところを薬草を摘みに森に入っていた天涯孤独な薬売りの村娘と出会い、手当てを切っ掛けにお互いが惹かれあうといった純愛物語になっている。
イシュリィが読んでいたのは、王子が村娘を城に迎えようとするも、村娘が身分の違いに身を引こうと王子を避けるようになったことで、自身の恋心に気付いた王子が村娘に告白をするまでを描いた続編だった。
手に入ったのは最近だが、イシュリィが夢中になって読んでいたので既に作中はクライマックスを迎えていた。
「はぁ~♡この後は村娘もさすがにOKすると思うけど…城に迎えられたらどうなるのかしら…やっぱり結婚!?いや、でも3巻が出てることを考えると、結婚までにまた何かハプニングが…!?」
「お一人で百面相をするのは構いませんが」
「――!?」
惜しげもなく自身の思考を垂れ流すイシュリィの背後から掛かった唐突の声に、彼女は声を失った。
反射的に背に本を隠し、声のした方へ顔を向ける。
陶器のような肌にプラチナの髪とエメラルドの瞳が特徴的なひょろりとした長身の青年がイシュリィを見下ろしていた。
「…なんだ、ソロモンじゃない。びっくりさせないで」
声の主を見ると、イシュリィは安堵の息を零した。
「なんだ、ではありませんよ。会議の時間になっても現れないと言われて様子を見に来てみれば…。また御伽噺を読んでいらっしゃったんですか」
ソロモンと呼ばれた男は呆れたように息を吐いた。
「むぅ。いいじゃない、好きなんだから。今一番いい所なんだから邪魔しないで」
イシュリィは頬を膨らませる。
ソロモンはいつだって冷静で現実的だ。
その能力を活かして、イシュリィは彼を秘書として側に置いているのだが、有能過ぎる故に、たまにこうやって彼女の機嫌を損ねる言い方をする。
「…本はどこまでお読みになったんですか?」
「王子が村娘にやっと愛を伝えたところよ!」
「では、残り1章とエピローグと筆者のあとがきがありますから、イシュリィ様の読む速度を考えると、すべて読み終わるまでに1刻半掛かりますね。始まってしまった会議は止められませんから、先に会議にご出席を」
「!?」
大雑把な説明にも関わらず、間を開けずにサラリと返答するソロモンにイシュリィは目を丸くした。
「な、なんでソロモンがそんなこと知ってるのよ!」
「イシュリィ様の代わりにその本を手に入れてくるのは誰だと思っているんです。危険や悪影響がないか確認する為に内容も全て検閲しているに決まっているじゃないですか」
「うぐ…っ」
イシュリィはぐうの音をあげた。
確かにイシュリィの愛読書である『真実の愛』シリーズは毎回ソロモンが仕入れてくる。
本だけではなく、手に入りにくい品々やちょっとした雑務に関してもそうだ。
多忙な彼女の代わりに労を割いてくれる貴重な人材であるからこそ、彼はイシュリィの信頼を獲得しているのだが。
「…さて。このやり取りで少し時間を無駄にしてしまいましたね。私は読書を続けていただいても全く構わないのですが…」
ちらりと時計に視線を向けたソロモンはイシュリィに背を向け、部屋の扉に向かいながら、独り言のように話を続けた。
「そうなると会議に連れていけなかった私は今日お集まりいただいている重役の方々に“役立たず”と処分されるでしょう。そうなるとイシュリィ様の立場上、『真実の愛』を手に入れる手段がなくなりますねぇ。永遠に続編は手に入らず、物語の結末を知ることが出来なくなってしまう…さて、どうしたものか…」
イシュリィの顔がサッと青くなった。
背中を向けたまま顔だけ向けるソロモンの瞳には迷いなど一つも映っていない。
知っているのだ。彼女の扱い方を。
わかりきっている答えを部屋の扉の前で待つ姿は、イシュリィにとってとても腹立たしいものだった。
ついつい、悪態を吐く。
「この悪魔…っ!」
「そうですよ。イシュリィ”現魔王”様。会議はいかが致しましょう?」
「行くわよっ!行きますとも!」
イシュリィの投げやりな返事にソロモンはにっこりと微笑み、部屋の扉を開けた。
「ソロモン、あなた後で覚えてなさいっ!」
「肝に銘じておきます。偉大なる我が主君よ」
口を尖らせるイシュリィにソロモンは恭しく首を垂れた。
しなやかで余裕のあるその所作が、イシュリィの腹立たしさを更に強める燃料となる。
イシュリィ・ルチーフェロ。
彼女は前魔王である<高慢>のルシファーと前魔王妃<色欲>のアスモデウスの娘であり、魔界を統一する現在の魔王である。
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