三章:微睡の恋慕

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百合はその日、心底驚いた。 病院の帰り道で寄った書店で百世の作品を探そうと思ったのだが、探す間もなく彼の名前が大々的に記載された新刊ポスターが貼られていたからだ。 そして、その作品が純愛小説だったことも加えて重なった。 普段の百合はミステリー系の小説を好む。 その為、他のジャンルは殆ど読むことがない。 だからこそ、ここまで大々的に宣伝されて目立った作品にも気付かなかったのかもしれない。 平置きされているその作品は幻想的な夜空を見上げる人影の綺麗な表紙で飾られていた。 そこに書かれている百世の名前は、単純なイメージで女性を思い浮かばせる。 「…これは山茶花さんのこと知ってても気付かなかっただろうなぁ…」 少しだけ立ち読みをしてみる。 一人称は「私」。 女性と思われる登場人物の独白から始まっている。 百世の作品は童話のように繊細で優しい文章で綴られていた。 表紙のイメージ通りに幻想的で、ふわふわとした夢の中を歩くような世界観に引き込まれていく。 脇に並べられていた彼の作品をもう一冊手に取って、そのままレジで清算を済ませた。 帰る道すがら、百合は携帯を取り出してSNSアプリを起動する。 新しく登録された相手にメッセージを送った。 百合:山茶花さん、作品買いました(*'ω'*)    恋愛小説家さんだったんですね。    これから家で読むのが楽しみです♪ 山茶花 百世:社交辞令って言葉知ってる? 少し間を置いて、すぐに返答があった。 簡潔で短い文章だった。 百合:でも教えてもらったし私も読みたかったので(*´ω`*)    せっかく連絡先交換したので報告です。 山茶花 百世:今日のお礼するのに必要だったから交換しただけ 百合:お礼なんてホント気にしないでください(´・ω・`)    そんなことより、山茶花さんちゃんと帰れました?    ちゃんとご飯食べてゆっくり身体休めないとですからね? 山茶花 百世:アンタは俺の母親か 百合:不健康で倒れたところを発見しちゃったから最後まで心配します!    山茶花さんのお母さん(代理)にだってなりましょう!( ゚Д゚)    諦めてお母さんの言うこと聞いてしっかり元気にならないとですよー! 山茶花 百世:笑 百合はメッセージを送る手を止めた。 自然と口元が三日月になっているのに気付いて口元に触れる。 たった一文字。 相手の感情が見えるその文字を嬉しく感じた。 メッセージ画面を見ながら、百合は考える。 唯一、感情が見えた瞬間に彼がどんな顔をしていたのかを。 病室で話をしていたときに一度だけ、彼は困ったように微笑んだ。 戸惑うような、気恥ずかしさを抑えるような、そんな不器用さを携えて。 あのときのような表情だったのだろうか。 束の間、画面を見つめた。 そして再びメッセージを作成する。 百合:安静が必要だと思うので、これに返事は要りません。    小説を読んだらまた連絡します。    おやすみなさい( ˘ω˘)スヤァ メッセージを送り終えて、百合はアプリを閉じた。 携帯の画面に集中して自然と歩みが遅くなっていたついでに、立ち止まる。 空を見上げると、既にいくつか星が見えていた。 先ほど買ったばかりの小説の表紙には似つかないような日常の空。 それでも、星の輝きを見れたことに喜びを感じる。 携帯の着信音が鳴った。 画面を確認すると、百世からの返信だった。 山茶花 百世:おやすみ 百合は笑みを零す。 「ふふっ、山茶花さん律儀だなぁ…」 不器用な言葉遣いと苦手そうな感情表現。 それとは真逆に繊細な言葉選びと緻密な文章構築で店頭にポスターを貼られたり平置きされている人気作家。 倒れるほどの不摂生をするほどズボラなのかと思いきや、礼や義理を通す気遣いを見せる、日常の中の非日常で出会った相手。 初対面の彼は様々な意外性を持っている。 (…仲良くなったら、もっと山茶花さんのいろんな顔が見れるのかな?) 考えても当然、答えは出なかった。 それでも嫌な気持ちはせず、むしろ楽しかった。 誰かのことを考えてそんな感情を持つのは初めてのことで、なんだか心がくすぐったい気がする。 「早く家に帰ってコレ読もう」 言葉は自然と口をついていた。 袋に入った本を胸に抱いて足早に歩き出す。 百合は内に生まれた初めての感情に浮かれていた。 自分自身に降り注いだ非日常。 その最たるものを忘れてしまっていた。 星の輝きは増えていく。 宵の影に重なって、百合から延びる影はより濃い色で存在を浮かばせていた。 遠く。 遠く。 何かに惹かれるように。 延びた影は彼女が家に着くまでに、深くなった夜に呑まれて行った。
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