三章:微睡の恋慕

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「イシュリィ様!」 名前を呼ばれたことに意識が集約する。 いつの間にか目を閉じていたようだ。 「ーどうしたのソロモン」 必死の形相で自分の名前を呼ぶソロモンに戸惑いながら答えた。 「どうしたのじゃありません!覚えてないんですか!?急に倒れたんですよ!あのクソ役立たずの医者、原因すら見つけられなくて数時間意識がなかったんです!身体の異常は!?何があったんです!?」 まくしたてるようにソロモンが叫ぶ。 それを聞いて、イシュリィは会議に出席するしないでいつものようにソロモンと問答をした後、渋々出席の準備を始めた頃からの記憶がないことに気が付いた。 ベルベッドで作られた天蓋の深紅は見慣れた色だった。 「よかった…ヒュッあんな…ふざけたことがゲホッあったばっかりで、このまま目を覚まさないかと…ヒュッ…とりあえず、些細な事でいい。貴女の身に起こって感じたことをゴホッ…ぅ告してください」 意識がなかった数時間、イシュリィの名前を呼び続けていたソロモンの声は枯れている。 彼女が意識を取り戻して安堵したのか、その疲労がどっと押し寄せたかのように息切れとなって顕著になった。 前兆もなく意識を失ったイシュリィは彼に告げられることを思いつかない。 「…夢を見た気がする」 少し考えて、イシュリィは遠い糸を手繰るようにそう呟いた。 「夢…?」 「そう。私は別の名前で呼ばれていて、見たこともない景色の中を歩いていて…それで…」 イシュリィは言葉に詰まった。 散々心配をかけたソロモンに、この言葉を告げるのは気が引ける。 「…気にせず言ってください」 彼女の心を慮ったようにソロモンは促した。 「……楽しかった…気がする」 目を覚ました瞬間に朧になった記憶。 それをどうにか捕まえるように、イシュリィは瞳に映る天蓋の遥か遠くを見つめる。 数呼吸の間を置いてソロモンが息を吐いた。 イシュリィのベッド脇に膝を落とし、彼女の手を両手で祈るように包む。 「夢を見ていただけならいい。もしこれが永遠の泥濘を招く呪いだったら、俺は…」 ソロモンはそれ以上、言葉を続けなかった。 普段のポーカーフェイスを崩して青い顔をしているソロモンを見て、イシュリィは身体を起こす。 彼女を気遣う声を掛けるソロモンを抱き締める為に。 「…心配かけてごめんね。大丈夫だから」 宥めるように柔らかな声音を紡ぐ。 魔王であるイシュリィの魔力抵抗力を上回る呪いや、それを扱える者は片手で数える程しかないだろう。 加えて、彼女は生命力も高い。 それ故に大病を患ったこともないので、予兆もない状態で倒れる程の病が彼女の身体を蝕んでいるとは考えにくかった。 イシュリィ自身も、それを理解している。 考えられることといえばモイラの三柱神から語られた運命。 本来であれば”ありえない”運命の影響が出始めていると考えるのが自然だ。 ソロモンはそれに気付いているからこそ普段の彼らしからず、声が枯れる程に、青ざめる程に心を砕いたのだろう。 「身体も、本当に何も異常がないの。慌ただしい日が続いていたから、少し疲れちゃっていただけだと思う」 「…暫くは身体を休めてください。仕事は、必要な分は私が代わりを務めます。貴女はただ自分のことを考えていればいい」 「あら。ソロモンがそんなこと言うなんて、明日は魔界に花でも咲くのかしら」 身体を離してソロモンがイシュリィの顔を見上げると、冗談めかして彼女は笑った。 まだ何か言いたげな表情を浮かべていたソロモンだったが諦めたように息を吐く。 「…その代わり、回復したらしっかりと仕事していただきますからね」 「えー?私よりもソロモンの方が仕事できるんだから、ずっとそのままでもいいのよ?そうしたら私、隠居できるし」 「馬鹿なこと言ってるとシバきますよ?」 にっこりと、何かを含んだ笑み。 いつもの調子に戻ったソロモンにイシュリィは慌てて謝罪する。 そして一瞬、続ける言葉を口にするのを躊躇った。 イシュリィのその言葉で、ソロモンはまた心労を増やしてしまうだろうから。 それでも、言わなければいけない言葉だった。 「―でも、”もしも”のときはお願いね」 イシュリィのその言葉にソロモンは答えなかった。 ただ、彼の表情は痛いほどその言葉を受け止めていることが分かった。 「…さてっ…と、ソロモンのお許しも出たし、久しぶりに『真実の愛』を読み直しちゃおーっと♪」 ぐっと腕を広げて伸びをしながら、イシュリィはベッドから立ち上がった。 いつものように剣呑とした口調で話しながら、隠蔽魔術が施されたお気に入りの本だけを納めた本棚に向かっていく。 そんな背中を、ソロモンは黙って見つめた。 (あのとき―…) 彼女が倒れた時。 ソロモンは一つの違和感を感じていた。 それが何かを確信するものが彼自身にはなかったが、それは胸中に波紋を広げるには十分過ぎるものだった。
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