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一章:虚栄の悪役(ヴィランズ)
イシュリィは魔界ではサラブレットだ。
現役時代に圧倒的な魔力により魔界序列のトップを常に取り続けた父・ルシファーと、様々な顔を使い分ける美貌とその知略の高さ故の人心掌握にて当時ナンバー2にのぼりつめた母・アスモデウスを知らない者は魔界にはいない。
物心がつく前からイシュリィも両親から受け継いだ魔力の片鱗を見せていたようで、彼女が成人の儀を終えると同時に2人は王位をさっさと放棄して隠居生活を楽しんでいるようだった。
「…ソロモン。私も隠居したい」
愛読書である『真実の愛』シリーズ3巻を膝の上で閉じると、イシュリィは肩肘で頬杖をつき、ティーカップに新しい紅茶を注ぐ銀糸に深い緑色の宝玉を持つ男に不満気にそう言った。
「隠居されるには、他の者との序列争いで敗北しなければなりませんね」
「嫌よ。戦ったら相手が怪我をするじゃない。私の魔力じゃ下手したら命を落としかねないでしょ」
口を尖らせるイシュリィに、ソロモンはくすくすと笑った。
「実力主義の魔界ではそれが当たり前の筈なんですがねぇ…。我が主君は相変わらず変わっていらっしゃる」
「強い力を持っているからといって、ただそれを揮うだけなんて芸がないじゃない。私は父のような圧倒的なカリスマはないし、母のように人心掌握に長けている訳でもないもの」
イシュリィは新しく注がれた熱い紅茶を一口すすった。
「かといって、馬鹿みたいに単純に挑んでくる輩に王位を譲ったら魔界が滅茶苦茶になっちゃいそうじゃない?それも嫌なのよねぇ…」
頭を悩ませる彼女は、溜息を吐きながら椅子の背もたれに寄り掛かった。
「あとは前魔王様のように、自分の子に王位を継がせるくらいでしょうね。もっとも、イシュリィ様のように誰もが納得する魔力あってこその話でしょうが…」
「ぜぇーったいにイ・ヤ!それってより強い魔力を持った子孫を産む為の政略結婚じゃない!私は『真実の愛』みたいな運命的な出会いをして、その人と恋に落ちて幸せになるんだもの!」
息巻いて、イシュリィは『真実の愛』の表紙をソロモンに見せる。
彼は小さく口角を上げた。
魔界に一夫一妻制などの制約はない。ならば一夫多妻制なのかというと、そうでもない。
定期的に開かれる夜宴が良い例であるが、魔界の住人は相手を気に入ればそのまま交わるし、その相手に執着することもない。そもそも愛や恋、そして結婚という概念すら存在しているのかどうかも怪しいのだ。
歴代の王や王妃でさえ各々が主催するサバトがあり、お互いのそれには不干渉だった。
そんな世界で、唯一無二の相手や唯一の愛を語るイシュリィの発言はあまりにも愚かしい。
魔界最強の王が紡ぐ言葉は、まるで幼い子どもが語る夢物語でしかないのだ。
ソロモンはイシュリィに仕えて長いが、いつまでも変わらないその幼い甘さに彼は愛着を持っている。
「…では、隠居されるのはもう少し先の話になりそうですね」
「うぅ~っ!父様も母様も、隠居後は人間界に行ってるのよ!?それも人間の愚かさを間近で見る為なんてくだらない理由で!魔界の誰よりも私ほど人間界に行きたいと思ってる魔族は絶対いないのに!!ずるい!!」
バンッと勢いよくテーブルが叩かれた振動で茶器がガチャリと音を立てる。
その拍子に1枚の紙切れが床に舞った。
拾い上げると、それは便箋だった。
差出人は、数百年に一度のペースで思い出したように送られてくる前魔王と前魔王妃からだ。
ソロモンは軽く目を走らせ、書かれている文章を読んで彼女が不機嫌な理由を理解した。
どうやら2人は現在人間界にいるらしい。
そこで人間のフリをして生活していることと、イシュリィが納得いかないと零した内容が端的に書かれていた。
「…似た者親子、といったところでしょうか」
「目的が違うわ!私は人間を見たことがないけれど、嫌いじゃないもの」
「前魔王様方も嫌ってはいないと思いますよ。愛で方は異なりますが、ね」
イシュリィは人間を見たことがない。
それは彼女が魔王として即位する直前に、前王であるルシファーが人間と魔界への不可侵条約を結んだからだ。
人間界では魔力の継承率が低下していたことから条約はすんなりと結ばれたが、ただでさえ脆弱な人間など、ルシファー1人の魔力で人間を絶滅させることは容易かっただろう。その選択をしなかったのは、多少なりとも愛着があったからではないだろうかとソロモンは想像する。
他者を気遣うことをしない魔界ではあるが、そのルールにそぐわない平和主義のイシュリィの性格を考えた為もあったかもしれない。
既に王位を退いて魔界にもその姿を置かなくなってしまった前王の心を知ることが叶う術がないので、今は憶測でしかその結論を見出すことは出来ないが。
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