三章:微睡の恋慕

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三章:微睡の恋慕

――… ――…! 遠くで声が聞こえる。 自分が暗闇の中で瞼を閉じていることに気付いたので開けようとするのだがとても重い。 「百合!」 名前を呼ばれて一気に意識が覚醒する。 反射的に開いた目に映ったのは真っ白い天井。 それから、ショートボブにTシャツとスウェットの中肉中背の壮年女性が不機嫌な顔をして腰に手を当てながらこちらを見下ろしている。 「…お、かぁ、さん…」 自然と口をついた言葉。 そう、母だ。 見知った顔なのに、何故か記憶が揺らぐ。 「…(”百合”。私の名前)」 「休みの日だからってこんな時間まで寝てないでよ!たまには外で遊ぶとかしなさい!」 「ぅん…」 また微睡みに沈んでしまいそうになるのを防ぐ為に目を擦ると、少しだけ意識がハッキリと輪郭を取り戻した気がした。 「またアンタ、明け方まで本読んでたんでしょ。やめなさいよ?目悪くするでしょ」 (この人は私の”お母さん”) 情け容赦なく部屋のカーテンと窓を開ける母の姿を追った。 目が痛くなるほどの光が差し込んだかと思うと、ふわりと温かい空気が肌を撫でる。 それを模ったように薄緑色のカーテンが揺れた。 部屋を視線でぐるりと見回す。 机とクローゼット、身を置いているベッド。そして中身の詰まった本棚が大半を占めている。 本が入りきらなくて机や床を侵食している様は、自身が熱心な読書家だということを思い出させた。 (ここは、”私の部屋”) 枕元には小説が一冊、無造作に置かれている。 記憶が曖昧ではあるが、母のいう通り本を読み耽っている最中に寝入ってしまったのだろう。 ただ妙なことに、意識を失うまで没頭していた筈なのに、本の内容を全く覚えていない。 おもむろに手に取った本のページをパラパラと捲る。 流し読みするにも覚えのある単語は見当たらない気がした。 自分は一体、この本をどこまで読み進めたのだろうか。 「―またアンタはそうやって本ばっかり!」 記憶に疑問を持ったところで、苛立ちを見せた母親が頭を掌で叩く。 小気味のいい音が鳴る中々の威力だった。 思わず反動で世界がくらりと揺れる。 「ぃっ…たぁ~…」 「いい加減に布団から出なさい。お母さん忙しいんだから、アンタに構ってるヒマないのよ」 「わかった、わかりましたあぁ~」 痛みを緩和させる為に叩かれた場所を摩りながら答える。 「ねぇ、今日の紅茶は何?」 「は?」 母親が投げかけた疑問詞に、自身も疑問に気付いた。 「何言ってんのよ。お母さん紅茶よりも珈琲派なんだから、紅茶なんてある訳ないでしょ」 「…うん…そうよね…?あれ…?」 そう、彼女は珈琲に関しては専門店で豆を買い付けるほどこだわりを持つが、紅茶はあまり好まない。 飲まないのに置き場所を取るのは無駄だと、彼女が購入することもないので家に紅茶葉があることは稀なのだ。知人友人からの頂き物でもない限り。 (なのに、なんで”紅茶”…?) 「お茶が飲みたいなら、このあいだ叔母さんが中国行ったってくれたお茶があるわよ」 「んー…。ううん、珈琲でいい」 少し考えたが、おそらく珈琲は彼女が後で飲む為にと余分に作られている筈だ。 朝一番の手間を考えるとそちらの方が楽だと判断した。 「え゛、アンタ珈琲飲むの?飲むならちゃんと作り足して置いてよね」 「はぁい」 空返事をして部屋を出る。 部屋の扉を開けた瞬間に深みのある香ばしさが鼻腔を突いた。 妙な日だと思った。 部屋、人、物。 どれも自分にとっての”日常”だ。 なのに、急にぽっかり自分だけが浮いている感覚がある。 「はぁ~。いい年してアンタはいっつもボーッとしちゃって…」 いつの間にかリビングの入口で立ち止まっていたようだ。 そこに追いついた彼女が、背後で溜息まじりに呆れたような声を出す。 「休みにデートしてくれる彼氏の1人や2人いないの?」 何か、頭の奥でつっかえた気がした。 「私がアンタくらいのときはねぇ…」 「あーーー。ハイハイ、そうね。でも、私には無理だわ」 直感的に長くなりそうだと感じて言葉を遮った。 不満気な顔をする彼女ににっこりと笑った。 「だって、まだ恋すらしたことがないのに」 「……そりゃそうでしょう。休みに引きこもって一歩も外に出ずに本の虫なんだから。運命の王子様だって呆れて帰るわよ」 楽観的な発言をまともに相手にすることを諦めた彼女は投げやりに言う。 「ふふ、そうかもね。でも、縁があるなら何度だって巡り合うわ」 キッチンにあるカップを取り、メーカーで保温になっている珈琲を注いだ。 香りを楽しんでから、一口。 「アンタのそのお花畑は誰に似たのかしらねぇ…」 寝癖をつけながら無邪気に笑う”娘”から彼女はカップを奪ってリビングの椅子に腰かける。 彼女は考える事を止めて珈琲を啜った。
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