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「……千尋さん?」 「……そ、……たくん」  腕の中に抱かれているのは心地よい。千尋は気だるい身体を無意識に擦り付けた。 「今、何時……?」 「六時です。まだ眠っていてください」 「……帰る」 「何言ってんですか、ダメです。少し出血したんです。俺がちゃんと送りますから」 「大丈夫」  目が覚めると同時に意識が冴えた。千尋は起き上がるとベッドから降りようとした。 「ちょっと待って、千尋さん」 「ごめんね、本当にごめん」 「なんで謝るんですか」 「こんなの、違う」 「違うって」  千尋は振り返った。 「どうしても淋しくて! 心も身体も限界で、だからこんなことした! 本当の僕はこんなことはしない!」 「千尋さん」 「全部、間違いだった! 君と会ったことも、君としたことも!」 「違うだろう!」  起き上がり、両肩を締め付けるように掴まれると千尋は眉根をしかめた。 「違わない! 僕は恋人を裏切った最低の男、ただそれだけだよ」 「……部屋にあった写真立ての彼、ですか」  テレビの横に伏せてあったはずの写真立て。二人の旅行の時に撮ってもらった一枚だけの思い出の写真。 「あれを、見たの」 「すみません。でも、気になって」 「……帰る。もう会わない」 「千尋さん、待って。話がしたい」 「僕はしたくない。ごめんね。僕が全部悪いんだ」  ベッドから降りた瞬間、腰が砕けて千尋はその場にへたり込んだ。慌てて降りてきた颯太の両手の力を借りて千尋はベッドの端に座った。その隣りに颯太も座り、肩に手が置かれた。温かい。不覚にも涙が零れてしまった。 「何を言ってるのか、してるのか、わからないよね……ごめんね」 「ソウタさん、って言うんですね。付き合ってる人」  千尋は俯いて、両手で涙を拭った。 「倒れる前も後もあなたはその名前を口にしたから」 「付き合ってた……」 「うん」 「でも、死んだんだ。三年前」  千尋の手のひらがびしょ濡れになったのを見て、颯太はバスルームからタオルを持ってきてくれた。 「蒼大さんは僕の上司で、チーフデザイナーだった人……。大人で、優しくて、なんで僕なんかを愛してくれたのかわからないくらい素敵な人だった」 「うん」 「愛してるから結婚しよう、なんて……こんな僕に言ってくれた。でも、僕の部屋にくる時、雨でスリップした車に撥ねられて……三年前の今頃……梅雨の時期で……最期に幸せになれって……そう言って死んでいった」  タオルで目元と手を拭うと、千尋は肩を落として話し続けた。 「後を追うことも考えたけど、怖くて死ぬこともできなかった。最後にはこんな風に無関係な人を自分のわがままに付き合わせて……最低だよ」 「千尋さん」 「付き合ってる人、いるんでしょ?」  颯太は苦笑して、あー、と、声を上げた。
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