八極拳の謎 ~八極拳の開祖と成立に関する一考察~

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八極拳の謎 八極拳の開祖と成立に関する一考察  八極拳の成立に関しては、種々の説がある。  曰く、呉鐘(ごしょう)が、遊歴の少林僧・癩魁元(らいかいげん)に八極拳と六合大槍を伝授された。  曰く、四川生まれの回族・張四成(ちょうしせい)が「懶披裟(らいひさ)和尚」(=袈裟を着ようとしない和尚)と名乗り、呉天順(ごてんじゅん)と知り合い武芸を伝え、その子呉鐘を弟子とした。更に、呉鐘は陜西省延安府城西北の梭羅寨(さらさい)で頼魁之(らいかいし)先生に出会い、頼氏家伝の槍術を伝えられた。  曰く、河南省焦作、岳山寺の僧・張岳山(ちょうがくざん)が還俗して各地を遊歴中、呉鐘に岳山八極拳と六合大槍法を伝授した。  曰く、孟村鎮生まれの回族・丁発祥(ていはっしょう)が黄絶道長(道士) より弾腿の後に八極拳を授けられて、四川・張士成(懶披裟)を経て呉鐘に伝えられた。  などなど。  呉氏開門八極拳(以下呉氏とする)宗家の孟村呉家には、呉鐘は“癩(らい)”に三年間拳術を学び、後に“癖(へき)”に槍術を学び、「八極拳秘訣」を授かった、と伝えられている。  以上のように、八極拳の成立について色々な説が上がっているが、私は、やはり呉鐘が八極拳の開祖で、呉連枝老師が嫡伝の宗家であると考えている。 「羅疃(らどう)には孟村の小架二路が伝わっている」という呉家の主張が本当かどうか、についてはこれまで確信が持てなかった。しかし、最近ではYouTubeで各派の八極拳の動画が公開されており、それによって套路の比較をする事が可能となった。そして、それらを閲覧しているうちに、ひとつの仮説を得るに至った。それは、 「孟村呉家に伝わる『老架子』が八極拳の原形である」 というものである。  その仮説に至った元となったのは、皮肉にも馬家 通備門(つうびもん)の套路である。  馬鳳図(ばほうと)の母方の祖父は呉懋堂(ごぼうどう)であり、孟村呉家とは親戚関係に当たる。その縁もあり、馬鳳図は呉鍾毓(ごしょういく)(前院)の系統となる呉世科(ごせいか)から回族の八極を学んでいる。  馬鳳図の弟である馬英図(ばえいと)は、当時羅疃の重鎮であった張景星(ちょうけいせい)から漢族の八極も学んでいる。  馬鳳図―馬令達(ばれいたつ)伝の回族系と、馬英図―馬明達(ばめいたつ)伝の漢族系とでは、套路の構成が異なっている。それを見て、「もしかしたら、套路の構成を比較検討すれば、伝承の違いが確認出来るかも知れない」と予想を立てた。  現在、八極拳は種々な系統に分派しているが、対打にもなる八極拳(単打、単摘(たんてき)、大架、大八極、八極長拳等の呼び名がある)は、どの系統でも動作はほぼ同一である。また、呉氏の四郎寛(しろうかん)、武壇系の連環拳(れんかんけん)や長春系の応手拳(おうしゅけん)など、各派オリジナルのものは逆に特色が強すぎる。小架が、変化が少なく(変形はあるが)最も系統的な判断がつけ易い。  ここで、比較検討のもう一つの素材として、強瑞清(きょうずいせい)系の套路がある。こちらも、二種類の套路が伝わっている。名称もズバリで『孟村老架』と『羅疃硬架』である。  回族系(孟村老架)は、起式の後、両拳を伸ばし(作揖(さゆう))、一歩踏み込んで馬歩撑拳を打ち、頂肘となる。  漢族系(羅疃硬架)は、起式の後、両拳を伸ばし(作揖)、一歩踏み込んで馬歩頂肘を打つ。この動作的な相違は、馬家の物とも共通している。  作揖頂肘の動作は、李大中(りだいちゅう)系や張克明(ちょうこくめい)系、その伝を継ぐ李書文(りしょぶん)系、霍殿閣(かくでんかく)の長春系、季雲龍(りうんりゅう)系や韓化臣(かんかしん)系など、ほぼ全ての羅疃系の流派で行われている。漢族系の八極拳の代表的な技法である。しかし、作揖の動作の後に撑拳を行う派は少ない。ある人は、「八極拳では撑拳は無く、李書文が金剛八式で取り入れた」とも説いているが、回族系、特に呉氏では撑拳は基本功である。  呉氏に伝わる最古の套路と言われる老架子は、羅疃硬架とほぼ同一の動作であり、現在の小架二路がその発展形である。しかし、呉氏には老架子の他にもう一つの古い套路が伝わっている。それが老小架である。老小架は、現在の小架一路に近い構成であり、作揖の後に撑拳を用うる。この動作は、馬令達系と強氏以外はほとんど用いられていない(許家福(きょかふく)系や李景林(りけいりん)系、山東系や李志成(りしせい)に多少見られるが、明確な撑拳とは言い難い)。  私は、小架の撑拳は、回族八極拳独自の技法である、と考えている。その理由は、漢族系の小架には撑拳が含まれない、という事実と共に、湯瓶式(ゆべいしき)の存在を知った事が大きい。  湯瓶とは、穆斯林(ムスリン)(イスラム教徒―回教徒)の沐浴用具であり、回族武術では、その湯瓶を模した構えを湯瓶式と呼ぶ。湯瓶式は「守門戸(しゅもんこ)」則ち防御の意味を表す「清真=穆斯林」を表示する動作である。回族武術は七式拳、七式捶とも言い、伝説では、元の時代(1260~1368)の回族の軍隊が、フビライに従って各地を転戦する中で編み出されたという。  鄭州開封市の朱仙鎮に伝わる、回族の秘密拳法・湯瓶七式拳の伝承者、鄭大明(ていだいめい)先生や馬炳君(ばへいくん)先生の「馬歩の湯瓶式」を見て、ある仮説が浮かんだ。  その仮説は、潭腿(たんたい)(弾腿)門の口訣である"出勢為湯瓶式"や、査拳に伝わる湯瓶式 站樁(たんとう)の存在を知るに至って、確信に変わった。  呉氏の套路、特に老小架は、呉氏独特の起式の後、両拳を伸ばし(作揖)、足を右、左と進め左前の四六歩となる。その時左拳を前に伸ばし、右拳を腰に安ずる(無敵式(むてきしき))。そこから右足を左足横に引き寄せ、大きく踏み出して馬歩になりつつ体を開いて右拳で前方を打つ(定陽針(じょうようしん))。打った右腕を曲げて頂肘(両儀(りょうぎ))の形にする。  確信とは、この無敵式と定陽針こそ、"湯瓶式"なのだ、という事である。  四六歩で構える無敵式が陰の湯瓶式「防御の形」、上歩して馬歩で打つ定陽針が陽の湯瓶式「攻撃の形」とすると、呉氏の「八極無形論」の陰陽変化にも合致する。  この構えこそ、八極拳が孟村呉家の拳である事の証明であり、回族の呉鐘が開門した教門武術である事の表示である。だからこそ、老小架は漢族には伝えず、湯瓶式の入っていない老架子(小架二路)を伝えたのであろう。  馬家は呉家とは遠戚で回族なので、湯瓶式を伝えられた。また強氏は漢族ではあるが、強瑞清が五世の呉会清(ごかいせい)と懇意であり、拳譜の復刻にも協力した事もあり、特別に伝授されたのではないか。ただ、馬家の伝は呉家の前院(傍流)であり、強氏も回族では無いので、動作の意味が正しく伝授されず、湯瓶式とはほど遠い形となっていると思われる(特に馬家)。  湯瓶式をもって回族呉氏開門八極拳の正統と見なせば、先の呉鐘以前の八極拳開祖説の脆弱性が見えて来る。  丁発祥を八極拳の開祖と考える人々は、黄絶道長(道士) - 丁発祥 -四川・張士成(懶披裟)・達摩叔王(だるましゅくおう)(神力王) - 呉鐘 -丁孝武(ていこうぶ)・呉栄 -李大中という系譜を示すのだが、栄―李大中・張克明の伝は、前出の通り全てに作揖頂肘で始まる小架が伝わっている。呉濚(ごえい)から呉連枝(ごれんし)に至る後院、呉鍾毓から馬令達に至る前院にそれぞれ伝わる 撑拳から頂肘を打つ小架を行っていない時点で、回族開門八極の嫡伝とは考え難い。  癩魁元も、少林僧だったり、孟村に来て八極と六合槍を伝えた、或いは陜西省延安府城西北の梭羅寨(さらさい)で槍法のみを伝えた、と伝承に統一性が無い。  張四成は、四川生まれの回族。雍生五年(1727)、反清復明の志だった彼は、捕らえられぬよう僧に身なりを変えて都を去り、放浪した。袈裟を着ようとしたがらなかったので、「懶披裟和尚」(=袈裟を着ようとしない和尚)と呼ばれた、とあるが、回族だから袈裟を着けない僧、というのは何とも目立ち易く、また回族の村で僧形でいる事も、逆に目を引くもので、追手から姿を隠している、という事実と相反する行動であり、どうにも実在性に欠ける。  張岳山に至っては、師と拝した張岳山夫妻が還俗した少林僧だという理由で回教を棄て仏式で祀った、などと回族のアイデンティティさえ失う話しになっている。この説を支持しているのが、回族で、しかも呉家とは遠戚の馬家なのだから世の中判らない。  ここで最初の話題に戻ると、呉氏で最古の套路と言われる老架子には撑拳は入っていない。つまり、八極拳は呉鐘が手を入れる事によって初めて回族武術となった、という事である。  呉氏の拳譜に現れる"癩"や"癖"が如何なる人物であるかは判らない。反清復明の志士であったかも知れないが、それも明確には伝わっていない。ただ、"癩"や"癖"のもたらした「異術」が呉鐘の手によって『八極拳』として後世に残された。そして、呉濚―呉凱(ごがい)―呉会清―呉秀峰(ごしゅうほう)―呉連枝と、孟村呉家に脈々と受け継がれているのは、紛れも無い事実である。  孟村呉氏開門八極拳七世宗家・呉連枝老師の功夫は高く、その実力は量り知れない。当に八極拳を体現した現代の達人である。 終 20181130
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