【初めて言葉を交わしたのは】

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* 女はそのホテルに勤め始めて3年が経っていた。 そもそもホテルマンになるつもりはなかった。高校卒業後の進路に、親友が専門学校へ行くと言うから自分もそこに決めた。特に目的もないから友人と同じ科を選んだ、それが接客業を学ぶ学科だった。 二年後の卒業のおり、このホテルの求人が来ていた。これも巡りあわせだと思った、自宅から僅か徒歩5分のところにあるホテルの求人など、自分の為の求人だと思えた。 有り難い事に就職もでき、中川麻那(なかがわ・まな)は日々仕事に勤しんでいる。 ホテル・キノスラは、ロビーとレストランから工場夜景が臨めるホテルとして有名だった。 おかげで繁盛し、週末は満室になる事も多い。満室になってもそもそも客室は多くないから忙しさも適度で済むところも、よい場所に就職できたと喜んだ。規模としては、ホテルというよりペンションだろう。 客の多くは市外、県外からの一見さんの客だが、常連も多い。 そのひとりである男が、ロビーで本を読んでいた。 三カ月に一度ほどは泊まりに来ると認識している。名は長谷部克明、年の頃は自分より少し上と感じていた。 働き始めて間もない頃は、なぜそんなに泊まりに来るのだろうと不思議だった。オーナーにロビーに飾られた写真の何枚かは長谷川のものだと教えられて納得した、調べれば写真家として著名な人物だった。 確かに泊まりに来ると、夜は外出していた。少し行けば飲み屋もある、そんなところへ出かけているのだろうと思っていたが、実は撮影だったのか。もちろんこの辺りでは満天の星空などない、このホテルが売りにしている工場夜景や街の夜景を撮りに行くのだろうと判った。 その男が今、ロッキングチェアに頬杖をついて、文庫本を読んでいる。 窓の外は暴風雨。9月16日、朝晩は秋の気配も感じ始めたと言うのに超が付くほどの台風が、ここ横浜を直撃している。暗くなる前に帰宅を促されたが、近所だからいいと断った。どうせ翌日も勤務だ、なんなら泊めさせて欲しいとも伝えてある。 雨風が窓の当たる音は恐怖を感じるほどだった。外出など到底無理だ。だから長谷部は持て余した時間を読書で過ごしているのだと判る。 頬杖をついた横顔が綺麗だと思った。見惚れている間にそんなにじっくりと顔を見た事がなかったと気が付いた。顔を見ない訳ではない、しかし入退出の手続きの時にじっと顔を見るのも失礼だと、目を合わせる程度だった。 綺麗な顔の写真家が何を読んでいるのだろう、そんな事まで気になった。 麻那はフロントを出て、並ぶローテーブルを拭いて回りながらそっと長谷部の手元を覗き込んだ。革のブックカバーが見えてロビーに備え付けの本でない事は判った、しかし文字の羅列だけではさすがに著者すら判らない。 折角近くまで来たのだ、なにか話題を──そんな衝動に駆られた。 「台風、困りますね」 思わず出た言葉だった、業務関連以外で声を掛けたのは初めてだった。長谷部は驚く様子もなく麻那を見上げる。 「ええ。雨天でもいい写真は取れますけど」 そう言って微笑む、優しい笑顔だった。 「さすがにこの雨じゃね。報道関係者なら行かないとだけど」 正直な感想に、麻那も微笑み返す。 「本当ですね、危ないですからやめてください」 近頃は強風に吹かれながらの海沿いの中継などはないようだが、それでも危険と隣り合わせだ。しかしそれを見て、危機を感じて避難する者もいるだろう、そう思うと大事な仕事である。 「あの、何を読んでいらっしゃるんですか?」 長谷部の手元を視線で示しながら聞いた、長谷部は本を軽く持ち上げ答える。 「安部公房の砂の女」 言われた題名に、麻那は反応できない。太宰治とか村上春樹とか、よく聞く名なら「わあ」とでも言えたが。 「渋すぎます」 当たり障りのない言葉で返した、長谷部はふふっと優しく微笑む。麻那の知らない作家と題名なのだと看破した。 「60年くらい前に発売されたものだけど、いい本だよ、読む?」 それ自体は10年ほど前に買った文庫本だ。 だが麻那は、勧められても曖昧に微笑んで拒絶してしまう。本はデジタル派だと言えば聞こえはいい。 「読み継がれてる本は、やっぱり理由があるんだと思う。何度読んでも発見がある、飽きないよ」 「そうなんですね……いつか……読んでみます」 しかしいつになる事やら、と思ったが、それは言葉にはしなかった。 「仕事柄、待つ事も多くてね。移動も長い事が多いから、こんな本ならちょっと出して、ちょっと読むのにちょうどいいんだ」 「そうなんですね」 「って、もう読み過ぎて、暗記レベルだけど」 笑う長谷部に、麻那も微笑み返す。 「やっぱりアナログだなって思う。今はスマホなんかで時間を潰せなくもないけど、バッテリーは気になっちゃうし、そんなの見てたら目をやられるし」 「やられる?」 「明るさがね。いざ星を見た時、ちゃんと見えないから」 「そうなんだあ」 儚い光の星は、スマートフォンの画面の明るさに負けるのだと初めて知った。 長谷部の事を知る喜びを知ったのか、麻那はつい、気になっていた疑問が口をついた。 「あの……なんでいつも、このホテルに泊まるんですか?」 麻那の質問に、長谷部はふっと微笑む。 「え、ダメ? ここに泊まっちゃ」 「いえ、そうじゃなくて……もっと交通の便もいい、使い勝手のいいホテルなんかいっぱいあるのに、横浜の、こんな住宅街にある小さなホテルに泊まらなくてもいいような気はします」 世界を股に掛ける写真家だ、オーナーと話している時にはよく、帰国したままここへ来て、そのまま外国へなんて話も聞く。だったら都心のビジネスホテルの方がよほど楽だろうと麻那は思うのだ。 ここは最寄駅からも遠く、住宅街ゆえ道も狭い、なのに長谷部は大きな四輪駆動車を走らせてまでここへ来る。 「一番は、癒される、かな」 長谷部は本を閉じて応えた。 「ここは、来ると「おかえりなさい」って迎えてくれるんだ。そうやってオーナー家族はフレンドリーで多少の我儘は聞いてくれるし、夜景は綺麗だし、ご飯は美味しいし。そういう方が、ゆっくり休めるからさ。都心のビジネスホテルじゃあ、窓の外は隣のビルなんて当たり前だからね、それなら羽田に借りてる部屋に行くよ、テレビもエアコンもない部屋だけど」 「そうなんですね」 確かに寝に帰るだけなら何処でもいいが、ここならば温かく迎え入れられているかもしれない。 「あ、私、おかえりなさいって言ってなかったです」 それはマニュアルではないからだ。 「ふふ、いいよ、気にしてない。君が初々しく仕事していた頃から知ってるからね」 そう言われて麻那は急激に恥ずかしくなる、初々しいとは優しい言い換えだ、きっともたもたしていた様子を言っているのだろう。 (今度来たときは、おかえりなさいって言おう) 心に誓った。 「お帰りは明後日でしたよね。明日は撮影に行かれるんですか?」 「うん、そのつもり」 「台風一過ですから、綺麗に晴れそうですね」 「そうだね、君のお墨付きなら、晴れ上がりそうだ」 優しい笑みに、麻那は急に戸惑い、慌てて「失礼しました」と背を向けた。きっと長谷部は、何故そんなどうでもいい事を聞いて来たのかと思ったに違いない、そう思うと恥ずかしかった。だが、長谷部と会話できた事を内心喜んでもいた。他愛のない会話だったが、それでも真摯に話をしてくれる優しい人だと判って得をした気分だった。 (笑顔、素敵だった) それが自分に向けられたものだと思うと、幸せに満たされる。 対して、長谷部は、 (──なんで、か) 麻那の背を見送り再度本を開きながら、された質問を心の中で繰り返していた。 (確かに、前は日本に帰る度には来なかったような……) 過去にさかのぼり考えた、以前は時間があれば奥多摩の自宅に戻っていたような気がする。独り身だ、家屋は人が住まないと駄目になるからと換気の為に戻っていたのに。 (──ああ、何年か前から、か) フロントで微笑み迎えてくれる麻那の顔が脳裏に浮かんで、長谷部は文字は追っているのに、内容はまったく入ってこなかった。
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