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【名前を呼んで】
麻那のその日の業務は消灯の22時で終わる。
勤務は三交代、朝7時から14時までと、10時から18時まで、そして14時から22時までだ。
館内の消灯を確認し、最後はオーナーの妻に見送られてホテルを後にした。まだ雨は残るが暴風と言うほどではない中、帰宅できた。
夕飯は賄いで済ませている、すぐに風呂へ向かい、冷えた体を熱めのシャワーで温めながら、長谷部との挨拶程度の会話を反芻し思い出していると、急激に反省の念に駆られる。
会話した直後は、客との何気ない会話がよかったと思ったのに。思い返せば、もっとうまい返しや、気の利いた事が言えなかったのかと思えた。
素敵なお写真です、とか。
写真集を持っていて、実はファンだったんです、サイン貰えませんか、とか……いや、持ってないのだから嘘は駄目だ。
上部だけの会話を、長谷部はつまらなく思わなかっただろうか。急に声を掛けてきて変な女だと思わなかっただろうか……そんな欝々とした気持ちのまま、麻那は眠りについた。
*
朝起きてもモヤモヤした気持ちのままだった。長谷部は今日もいる、少しは挽回したいと思えた。
気合を入れ直してホテルに向かう。
麻那は昨夜は遅番だったので、今日は10時からの昼番での勤務となる。
台風一過ですっかり空気が入れ替わったようだ。爽やかな秋の気配と抜けるような青空の元を歩き出勤し、フロントに顔を出すと初老の男性、オーナーの尾熊がいた。
「おはようございます」
「あ、おはようー。ねえねえ、麻那ちゃん、長谷部君となんかあったの?」
いきなりの質問に、麻那の顔は引きつった。
「ななな、なんかってなんですか!?」
「いやさあ、朝ご飯の時、フロントの女の子の名前、聞いてもいいですかって言われてさ」
女子はオーナー夫人と、もうひとりバイトにいるが、夕べの今朝なら、自分の事だろうと判る。
そして、このホテルは小さいが故、従業員に名札ない。制服もないので、一見さんは宿泊客と従業員の区別がつかないことも多い。
「なにか粗相を?って聞いたけど、違うって言うし、他の客なら教えないけど、長谷部君ならいいかなって教えちゃったよ」
「そ、そうなんですね」
やはり変な女だと思われて、気になってしまったのだろうか。嫌われてしまうのは嫌だな──麻那の背中に冷たいものが流れた。
「あ、大丈夫です。夕べ、少しですけど台風が、なんて話をしたので、気に掛けてくださったのかも」
変な人だと思われたのなら、少し距離をおこうか──いや、本来の業務で接すればいい、下手に雑談などしようとするから、ヘマをするのだ。
改めて反省し、心を入れ替えた。
*
麻那の業務は多岐に渡る、小さなホテル故だ。チェックアウトを終えた客室の掃除をしていると、
「中川さん」
背後から呼ばれ、麻那は誰だと振り返った。
呼んでくれた人物の姿を確認し、もっと笑顔で振り返ればよかったと後悔する、開け放たれたドアの向こうに長谷部が立っていた。
「はははは、長谷部さん!」
笑った訳ではない、驚いたのだ。長谷部に名前を呼ばれるとは思っていなかった。そしてそれがこれほど心臓が飛び出しそうになるとは。
「お、おはようございます!」
「おはよ、って言うには遅いかな」
確かに、まもなく11:30になろうとしている。
「いえ、あのっ、夕べはよく眠れましたか?」
そんな業務的な発言に、麻那は再度打ちのめされる。自分がすっきりとした目覚めを迎えていなかったのが悪い。
「はい、もう自宅気分なので、ぐっすりと」
長谷部の笑顔が眩しく見えた。
「自宅……そうですよね、いつも同じ部屋ですし」
長谷部が予約の電話が入ると、必ずそこに名前を書く、他の人が入っていても変えてしまう。まさしく自宅気分で寛げるのだろうと麻那は思う。
「ええ。それ、ありがたいんだ。他の宿ではそうはしてくれない」
「他の……あ、そっか、あちらこちらに定宿があるんですね?」
「そうだね、世界中に、かな」
「凄い! 世界中ですか!」
海外は飛行機で行く所、イコール、北海道と沖縄と言う認識の麻那にとっては未知の世界だ。しかも沖縄は修学旅行で、北海道は子供の頃に行ったきりだった。言葉の通じない国など、いつになったら行く事やら。
「慣れたとこの方が安心だからね。でも日本に帰って来たなら、自宅に帰った方がいいんだろうけど」
「ご自宅はどちらに?」
「奥多摩です、星空の写真はその近所で撮る事も多いよ」
「わあ……そうなんですね、きっと綺麗なんだろうなあ」
「うん、山奥だから人工の明かりはほとんどなくていいんだ」
「すごーい、奥多摩の星空の本、今度買わせてもらいますね」
「買うくらいなら、今度プレゼントするよ」
「え、本当ですか!?」
「俺のなんかでよければだけど」
「とんでもない、嬉しいです!」
「サイン、入れようか?」
「はい、是非!」
勢いで言ってるようにしか見えない麻那に、長谷部は微笑んで応える。
「よかった。じゃあ、少し買い物に行ってきます、ついでにご飯も済ませて来るので」
「はい、お気をつけて」
笑顔で手を振る長谷部の背を見送る麻那の心臓は、途端に破裂しそうに動き出した。
名前を呼ばれた事を、とても嬉しく思ったのは初めてだった。
それに、今はうまく話せたと思えた。自宅は奥多摩にあるなどとプライベートな事を聞けた上、本をプレゼントするなど──本を持っていないなんて失礼かと思ったが、それが長谷部との接点になった事が喜ばしかった。
(しかも、サインだって──)
それを書くために、一度は素手でその本に触れてくれるのだと思うと、訳もなく興奮してしまう。
*
その日の夕方、そろそろ自分の業務が終わると壁掛け時計を気にしていると、長谷部が来た。
「おでかけですか?」
大きなカメラバッグと、手にしたルームキーでそう思った。
「ええ、川崎の工場夜景を撮りに行ってきます」
「川崎かあ、私、見た事ないです。いいな、見てみたいですー」
なにげなく出た言葉だった、言ってからはっとする。
(何言ってるの!? それって一緒に行きたいアピールみたいじゃない!)
長谷部のルームキーを置こうとした手が一瞬止まったのを感じて、余計に焦る。
「あ、わざわざ行かなくても、ここから見える景色も綺麗でした」
なんとか誤魔化した。
「え──ああ、そうだね、ここも十分綺麗だ」
フロントに置かれた鍵が、かちりと冷たい音を立てた。長谷部は「じゃあ、行ってきます」と背を向ける。
途端に冷たい風が吹いたような気がした。
素直では無かった事が、はっきりと判った。もっと素直に言えばいいのに──もっとも言いたかった言葉すら、焦る心の奥底に消えていった。
長谷部は駐車場に停めた車の荷台に荷物を放り込み、運転席に乗り込むとハンドルに腕を掛けてそこに顔を伏せて溜息を吐いた。
「──見てみたい、か」
珍しく若い従業員が来たと気にはなっていた。それまで若いと言えばアルバイトで、三回も顔を見ることはなく辞めてしまっていた。
この子もすぐにいなくなるかと思っていたが、辞める気配はなかった、それが安心できた。てきぱきとしていて、よく気が付く良い子だと思った。オーナーも人を見る目があると感心していた。
その子に初めて声を掛けてもらえた。こちらから馴れ馴れしく声を掛けるのはいやらしく感じて、仕事ぶりを遠くから見ているだけだっただけに、嬉しかった。例えるなら野良猫を迎え入れて、ようやく体を擦りつけてくれた感覚だろうか。それまで「ようこそ、ホテル・キノスラへ」か「また、いらしてくださいね」と言う会話くらいだったのに、それ以外の言葉を初めて聞いたのだ。
あの嵐の夜に──喜びから、なにやら饒舌に喋った記憶だけが残っている。
(──阿保か。じゃあ一緒に行きますか、なんて言おうとしたなんて)
まもなく仕事が終わるような素振りだった、少し待ちますから一緒に──などと言いかけた言葉は、麻那の言葉で掻き消された。それでも僅かに頬を赤く染めて俯く彼女を愛おしく感じた。
(もし誘ったら、君はどうしたろう)
そんな事を想像して、心がにわかにざわめきだす。
昨夜、あなたのお墨付きなら晴れ上がりそうだ、と何気なく言ったが、今夜はその言葉通り天気に恵まれた。台風が一掃した空気のお蔭で、とびきり綺麗な写真が撮れそうだった。
その一瞬を切り取る為に、エンジンを掛けた。いつもより輝きを増して見える見慣れた根岸の工場夜景に向かって、長谷部は車を走らせる。
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