【初めて言葉を交わしたのは】

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【初めて言葉を交わしたのは】

横浜の山の手にある小さなホテル、その名はホテル・キノスラ。 ホテルの紹介にも名の由来は書かれていないが、キノスラはギリシャ語で北極星を意味する。 何故『北極星』ではなく、一般に知られたポーラスターやポラリスでもないのかと、オーナーの尾熊(おぐま)に聞いたことがある。 返事はさっぱりしたものだった。 「知らないなー。元のオーナーが付けた名前だ。俺は勝手にあとを任されただけで」 元のオーナーとは旧知の仲とは聞いたが、詳しい事までは知らない。 ホテルはその筋では有名だった。全国にも名を馳せる横浜・根岸の工場夜景を臨めるのだ。 その噂と名に惹かれてやってきたのは、写真家の長谷部克明(はせべ・かつあき)。工場や街の夜景を撮って稼ぎを得ているが、主たる業務は天体写真だと自負している。 物見遊山気分だったが噂に違わぬ絶景に感動し、長谷部は度々来るようになった。 ホテルとは言うが、こじんまりとした家族経営なところもよかった。客室はたったの8室だ、ロビーで寛いでいても滅多に人に逢わないところがいい。元は美術教師だったと言うオーナーが作る料理も格別だった。それも噂を呼んで元は宿泊業務だけだったが、レストランは宿泊者でなくても利用できるようにしたほどだ。 横浜・山手の一角にある閑静な住宅街の小さなホテル。 疲れを癒すにはぴったりの場所だった。奥多摩にある自宅に帰るほどゆっくりする時間がない時、仕事柄機材や車を置くために羽田空港近くに部屋を借りているが、そこに滞在する気にもなれない時には、ここを利用していた。それでも年に一度か二度だったのが、最近は回数が増えている気がする。よほど居心地がいいらしい。 いつも世話になっているお礼として、自身の写真を贈るほどだった。近隣の工場の夜景や、北極星──キノスラを中心に同心円を描く天体写真は、ノルウェーで撮ったものだ。 恥ずかしながらも、その写真が飾られたロビーで今日も寛ぐ。自慢の根岸の工場夜景は、生憎の暴風雨で全く見えない夜だった。
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