一年後

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一年後

 漁村の朝は早い。ようやく白みだした空を見上げて、寒さで強張った腰を伸ばす。  この村も過疎化が進み、漁港で働くお母さんたちのほぼ全員が六十代。数少ないお嫁さんたちは町に出て働いている。漁師の仕事は毎月一定の収入があるわけではないから、お嫁さんたちの稼ぎが頼みの綱となっている。  一年間の失踪で以前の職を無くしてしまった私は、生まれ育ったこの漁港でお母さんたちと一緒に働かせてもらっていた。 「恵子ちゃん、今日は病院の日だったよね?」  大津のお母さんに声を掛けられ、「うん」と頷いた。 「だもんで、午後の競りの準備、手伝えなくてごめんね」 「なんもなんも、それぐらい何とか出来るよ。颯介(そうすけ)が病院まで付き添うって言ってたからね」 「え? 颯ちゃんが? そんな……いいのに」 「恵子ちゃんのことが心配でたまらんのさ。迷惑かもしれんけど、本人の気の済むようにさせてやって」 「うん。じゃあ、行ってきます」 「気を付けて行っておいで」  大津のお母さんの言葉をゆっくり噛みしめる。あの日の朝もそう言って送り出してくれたのに、結局私は帰って来なくて心配をかけてしまったのだ。  家に帰ると、玄関先に停めた軽トラの中で颯ちゃんが待っていた。駅まででいいと言ったのに、やっぱり彼は東京行きの新幹線に一緒に乗り込んでくれた。 「今日の検査で異常がなかったら、もう病院へは行かなくていいんだよな? 親父さんのことはもういいのか?」 「いいも何も……あんな人、父親でも何でもないよ」  二年前、不慮の事故で母が亡くなり、遺品を整理していたら指輪が出てきた。父の浮気が原因で離婚して一人で私を育ててきた母は、父のことを恨んでいたはずなのに結婚指輪を捨てていなかった。  私はそんな母が哀れで、せめて母の死を父に伝えたいと思っただけだった。それなのに指輪を持って父を訪ねて行くと、金の無心に来たと誤解されて父に酷い言葉を浴びせられた。  たぶん母の死からずっと張り詰めていた私の心は、その瞬間砕け散ったのだろう。自分のすべてを忘れてしまうほどに。
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