大山参道

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大山参道

 真っ赤に染まった“いろは紅葉”が並木道いっぱいに広がっている。  もうすぐ樹齢100年を迎える紅葉は80本ほどあり、全長200mの参道には紅葉のトンネルが出来ていて、美しい風景を織りなしていた。 「燃えるように鮮やかな紅葉だね」  西那須野(にしなすの)駅にほど近い大山参道を歩きながら、西郷従道(さいごうつぐみち)が微笑む。  隣にはかつて従兄弟であった大山巌(おおやまいわお)がいた。  今、従道は21歳。巌は22歳。  ちょうど明治の頃と同じ年の差で、二人は生まれ変わっていた。  西郷従道も大山巌も維新三傑(いしんさんけつ)の一人・西郷隆盛の一族である。  薩摩、今の鹿児島県は明治維新を主導した維新志士(いしんしし)たちを生み出した地であり、従道も巌も明治維新で活躍した。   従道は西郷隆盛の15歳年下の弟で、巌は隆盛の従弟に当たる。  隆盛、従道の父と巌の父が兄弟なのだ。  隆盛と従道の間の兄弟、吉二郎は戊辰戦争(ぼしんせんそう)で戦死しており、従道の下の弟、西郷家の末弟である小兵衛(こへえ)は西南戦争で隆盛につき、隆盛と同じく西南戦争で亡くなった。  従道は唯一残った西郷家の人間として明治政府を支え、巌も共に薩摩閥(さつまばつ)の一人として、明治政府に貢献した。  従道は小西郷(しょうさいごう)と呼ばれ、文部(もんぶ)農商務卿(のうしょうむきょう)、陸海軍大臣などの閣僚となり、巌も内務、陸軍大事を歴任する。  そんな二人が那須野が原に縁を持ったのは、明治14年のことである。  西郷従道は戊辰戦争が終わってすぐの明治2年に山縣有朋(やまがたありとも)とヨーロッパに軍制視察に行っており、巌も明治2年にヨーロッパに渡って、普仏戦争(ふふつせんそう)を視察し、3年間スイスジュネーブに留学していた。  その経験から栃木の地に貴族農場を作ろうと思いつき、巌と従道は協力して今の大田原市を開墾した。  大田原に加冶屋という鹿児島と同じ地名があるのは、従道たちが開墾した名残である。  当時の那須野が原は人のほとんど住まないような地で、水がまだ引かれてなかったこの地は、春になると起こる野火によって、野原が焼かれ、焦土となった野原が広がるような地だった。  そこに華族たちは水路を引き、農場を作っていったのである。  その二人が今は並んで大山参道を歩いている。 「ああ、隙間なくいろは紅葉が植えられているから、空も赤く染まるな」  その赤い空から、ひらりと紅葉が一枚落ちてくる。 「今は紅葉のアーケードだけれど、少しすると紅葉の絨毯(じゅうたん)になりそうだね」 「秋の間、二度楽しめる。樹齢100年近くと聞いたから、おいが死んだ後に、植えたものらしい。おかげで墓に行くまでの道が賑やかでいい」  墓という言葉を聞いて、従道が紅葉を見上げながらポツリと呟く。 「お墓か。待ち合わせまで時間があるし、見に行ってみたいな」 「墓だし、面白いものでもなかとよ」  薩摩弁になりながら首を振る巌に、従道はちょっと寂しそうな顔をした。 「おいは弥助(やすけ)さぁよりずっと早く死んでしもうたから、臨終にも立ち会えなかったし、せめて墓参りはしておきたい思うて」  弥助とは大山巌の通称で、従兄弟である従道は亡くなるまでずっと巌をそう呼び続けていた。  早く死んでしまったという話をされると、巌も言葉に詰まる。  従道は巌より若かったにもかかわらず、明治35年、日露戦争を迎える前に亡くなってしまった。  何度も内閣総理大臣に推された従道だったが、兄の隆盛が西南戦争を起こした逆賊(ぎゃくぞく)であるとして、その座に就くことを断り続けた。  それは従兄である巌も同じで、2人は終生、政治には関わらず、若く優秀な部下にすべてを任せて責任は自分が取るという形で日本の陸海軍を育てていっていた。 「そういうことなら、おいの墓まで案内し申す」 「あいがと、弥助どん」  可愛らしい薩摩弁のありがとうを口にしながら、従道は空いっぱいの紅葉を見上げた。 「兄さぁもこの空の下のどこかにおるのかな」 「どうだろうか。高みに上った人間はもう転生しないと聞いたことがあるから、西郷(せご)どんは空の上におるかもしれん」  懐かしい人の話をしながら、2人は大山巌墓所に向かった。
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