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序 章
月明かりに照らされた山奥。得体の知れない動物の鳴き声がこだましている。
そんな深山幽谷の獣道を、異様な姿で駆け抜ける者がいた。まるで平安時代を思わせる狩衣姿をした長身の男だった。
両肩に切れ目が入った白地の上衣は襟が丸く刳り貫かれ、袖括りの紐が通った袖口は大きく広がり、腰帯で結わえられた裾は膝下まで垂れている。上衣同様に白の指貫は、足首あたりでゆったりと膨らみ、白い足袋に草鞋を履いていた。
しかも男は白い能面を着け、束ねたロープを片手に持っているにもかかわらず、足場の悪さをまったく気にすることなく軽捷な足取りだった。
「いたぞっ! こっちだ」
その声に素早く反応した男は、足を止め斜面を見上げた。そして一呼吸入れてからその斜面を駆け上がろうとした、そのとき。
何かを察したのか、俊敏な動きで反転すると、背後の茂みに向かって身構えた。
やがてガサガサという音が聞こえてくると、腰を低くして臨戦態勢になる。
しかしその茂みから飛び出してきたのは小柄な男だった。男と同じ狩衣姿をして、手には刺股が握られている。
長身の男は構えを解くと何も言わずに狩衣の袖を翻し、斜面を駆け上がる。その後を小柄な男が続いた。
獣のような唸り声が聞こえてきたのは、そのすぐ後だった。二人が向かう先の、少し開けた場所からだ。
そこでは木々の間から射し込む月明かりの下、二人の男が丈で何かを取り押えているところだった。やはり狩衣姿で一人は熊のような体躯、もう一人は小柄な男だ。
後から加わった二人は、足元で暴れる〝それ〟を見た途端、能面の下で息を飲んだ。
それが人間だったからだ。いや、正確には〝元人間だった〟と言うべきだろう。
眼球の代わりに開いた穴から黒い粘液をまき散らし、その顔は青黒く爛れ、頬肉は腐れ落ちていた。白かったであろう長襦袢も赤黒く変色し、一部が白骨化した手足で抵抗している。
《が、ががっ……》
露になった頬骨と歯の奥から、獣のような唸り声がもれる。
すると刺股を持った小柄な男の能面に、腐敗した肉片が飛び散った。
「うっ……」
男は顔を背け鼻を押さえようとしたが、能面が邪魔で押さえられない。慌てて刺股を手放し能面を外すと、背後の茂みに駆け込み嘔吐した。
丈で屍を押さえていた大柄な男が、それを見るなり舌打ちをして怒鳴った。
「何をしている! 早く持ち場に戻れ!」
吐き終えた男は慌てて能面を着け直すと、ふらつきながら刺股を拾い上げた。そして躊躇いながら屍の腰を刺股で押さえる。しかしすぐに顔を背けた。その手は震えている。
「これが、地獄道に落ちた者か……」
ロープを手にした長身の男はそう呟くと、暴れる屍の手足にロープを巻きはじめた。その白装束や仮面にも腐敗液が飛び散ったが、気にする様子もない。そして自らの足で屍を踏み押さえると、一気にロープを引っ張った。
両手足を拘束された屍は、それでも体を反らして抵抗を続けている。
四人はそんな屍を担架の上に乗せ、別のロープでくくりつけると、足場の悪い獣道を担いで運び始めた。
屍はさらに大きな唸り声を上げ、体を捩らせ抵抗する。その途中で屍の右手首がボロッと腐り落ちた。それはまるで連れて行かれまいとするかのように、雑草を鷲掴みにしていた。
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