第一章 その一

1/1
32人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ

第一章 その一

 夏本番を目前にしたキャンパス内は、いつも以上に浮足立っていた。これから多くの学生たちは、夏休みを遊びやバイトに精を出し青春を謳歌するのだろう。  しかし俺はどちらとも縁が薄い。  時間と金を無駄にする遊びよりも、各地を巡って地域の因習や文化を調べるほうがよほど楽しいし、親が残してくれた金のおかげで生活するにも困ることはない。  そもそも俺がこの大学で民俗学を学ぼうとしているのは、これまでのような独学では限界を感じたからで、夏休みを遊んで過ごす気など全くなかったのだ。  民俗学とは、各地に伝わる信仰や風習、神話や伝説、妖怪変化や魔術・呪術の類いから生活用品や家屋に至るまで、古くから伝承されてきた有形・無形の文化が人々の営みの中で、どのような歴史的変遷を経て現在に至っているのかを明らかにする学問だと考えている。非常に多岐に渡る分野だが、一つ一つの変遷を人々の営みや歴史を辿りながら解明してゆくのは、なかなか興味深いと言える。  その中でも俺はある事情から、地域集落に伝わる信仰宗教と魔術・呪術の関わりの歴史的変遷を独学で調べてきた。  だからと言って、魔術や呪術の類を信じているというわけではない。  むしろその逆で、それらをすべて『非科学』として否定し、本来のあるべき形や成り立ちを論理的に解き明かしてきたのだ。  なぜなら、長い年月を経て伝えられてきた伝承文化を意図的に歪め、こともあろうか人々の恐怖を煽ろうとする輩が少なからずいたからだ。何を信じるかは個人の自由だが、様々な悩みを抱えた人たちの弱みに付け込み、悪霊や妖怪の存在を本気で信じ込ませた挙句に多額の金銭を搾取するような輩。俺はそんな奴らを野放しにすることができなかったのだ。 「――ナジ、……ねえ、ヤナジったら!」  そこで俺の思考に割り込んできた者がいた。同期の月島美鈴だ。 「……なんだ、美鈴か」 「『なんだ、美鈴か』じゃないわよ。さっきからずっと呼んでるんですけど?」  頬を膨らませることで抗議の意志を表しているようだが、童顔で小柄な少女では全くもって迫力に欠ける。  俺は一歩近寄ると、文字通りの上から目線で彼女のふくれ顔を見おろしてやった。  クセ毛風のエアリーボブはほのかな栗毛色で、色白の小さな顔と猫のような大きな目が俺を見上げている。ベージュのブラウスにネイビードットのスカート。そしてハイカットスニーカーを履き、白のロングカーディガンを羽織っていた。 「な、なに? じろじろ見ないでよ」  彼女は急に顔を赤くして俯いた。 「おかしいな。俺を呼んだのは美鈴だろ?」  すると慌てて顔を上げ、強気な眼差しで突き上げるように見返してきたが、すぐに神妙な顔になった。 「ちょっといい? 話があるの」 「話?」 「そう。できれば静かな所で」  彼女の視線は、駐車場に隣接する公園を向いていた。公園内の遊歩道に沿って設けられたベンチは木陰になっていて、何組かの学生たちが視線を向けた。しかし気に止めた様子もなく談笑を続けている。俺たちは空いているベンチに腰を下ろした。 「それで、話って何だ?」 「えっと……」  よほど話し難い内容なのか。彼女は俯き、ブツブツと念仏を唱え始めた。さっきまでの勢いはどうした? それでも無言で促すと、ようやく決心がついたように顔を上げた。 「ヤナジはさ、怪奇現象とかって信じる? 例えば、石像がすすり泣くとか、し……死者が蘇るなんてこと」  その言葉が刃物のように胸に突き刺さった。鼓動が大きく脈打ち、足元に黒い靄が纏わり始める。そして体が硬直して身動きが取れない俺の足元から、その靄はまるで意志を持った生き物のように這い上がってきた。 「どうかした?」  ハッとして我に返ると、彼女の顔がすぐ横にあった。動揺を悟られないようあえて涼しい顔をする。 「な、なんだ。ホラー映画でも見たのか?」  すると、非難をするような目で俺を睨んだ。  何か気に障ったのか? とりあえず常識人として彼女の問いかけに常識的な返しをしたつもりだ。しかしこのままにらめっこしていても埒が明かない。俺は切り口を変えた。 「と、都市伝説でも調べているのか?」  今度はプイっと横を向き、否定の意志を示した。まったくわけがわからん。しばらくの沈黙の後、彼女は大きなため息をついた。 「聞き方が悪かったのは謝るわよ。でも真面目に聞いてるの」  俺が黙って頷くと、彼女は「順を追って話すね」と言って語り出した。 「わたしの出身は、長野県北部の樋上村(ひのうえむら)という小さな山村なの。四方を険しい山々に囲まれて街からも遠く、人口は二百人ほど。昔は珍しい石が採れて栄えた時期があったらしいけれど、今ではお年寄りが細々と米や野菜、果物を作ったり、他には林業ぐらいしかない。まさにリアル限界集落」 「樋上村……」 「知ってる?」 「いや。初耳だ」 「……そう。私の実家はそこで代々宮司をやってるの。樋ノ上神社ってところ。その神社の御神体というのが『村巫女様』と呼ばれている巫女の石像なんだけれど、最近その石像がすすり泣くらしいの」 「巫女を祀っているのか?」 「そうよ」  俺はすすり泣く石像よりも、祭祀対象が巫女であることに興味を覚えた。 「珍しいな。神道における祭祀対象は、山や川、岩といった自然界に存在するものから空想上の人物や外来の神まで、八百万と言われているぐらい多い。しかし、巫女そのものを祀っているというのは聞いたことがない。巫女は神事の奉仕や神職を補佐するものであって、神そのものではないからな」 「でも村巫女様は神、いえ、それ以上の存在なのよ。どこからともなく現れて、村を救ったのだから」 「巫女に救われた村なのか?」  村の言い伝えだけれど、と彼女は真剣な顔で頷いた。  巫女の中でも『歩き巫女』と呼ばれ、特定の神社に所属せずに全国各地を遍歴していた巫女たちがいた。やがて彼女らが特定の土地に定着して巫女の村ができた、という史実ならある。だがやはりどれだけ記憶を手繰っても、神に仕える巫女そのものを祀った神社なんて聞いたことがない。しかし、そこで俺はある考えに至った。 「……ああ、そういうことか。過疎化対策の村興しだったら他を当たってくれ」 「ち、違うわよ! ただそんな噂が村で広まっているから、調べてもらいたいのよ!」  彼女に気圧されながらも俺は尋ねた。 「し、調べるって……どうして俺なんだ? それなら横瀬教授に相談したほうがいいだろ? 怪奇現象とか幽霊といった分野の専門家なんだから」  すると今度はムスッとして睨み返してきた。 「まさかヤナジ、本気で怪奇現象の類を信じているの?」  それを美鈴が聞くのか? これには少々本気で返す。 「それはない。ない、ということをこれまで俺は論理的に証明してきた」  するとその答えを待ってましたとばかりに、彼女は口角を上げた。 「だよねぇ。去年の七月に都内で起きた『霊感商法殺人事件』。ヤナジは、自称霊媒師がでっち上げた憑き物がいかに矛盾だらけの産物かを理論的に解明。被害者家族を納得させて洗脳から救った。違う?」 「し、知っているなら聞くなよ……」  急に気分が重くなる。それは思い出したくもない事件だったからだ。  ――その事件の被害者家族というのは、面識はなかったが、実は俺の遠い親戚筋にあたる人たちだった。  中学生の娘と息子を持つ四十代の夫婦。経済的にも恵まれ、一見すると幸せそうな家庭だといえる。しかし娘が高校受験で精神的に病むと、それに呼応するかのように息子が家庭内暴力を振るうようになったのだ。  そんなある日。霊媒師と名乗る男がやって来て「これは憑き物の仕業だ。このままでは家族全員が破滅するぞ!」と言って、高額な数珠やお札を売りつけたのだ。  ここまでならありがちな霊感商法だが、それがただの霊感商法で終わらなかったのは、言われるがまま金品を差し出す両親に、霊媒師の行動がエスカレート。憑き物払いと称して家族の目の前で娘を容赦なく殴打した結果、娘は帰らぬ人となってしまった。  しかし、驚くのはその後だった。殺人の容疑で霊媒師が逮捕されたにも拘わらず、その両親は別の霊媒師を探し、今度は息子の憑き物払いを依頼したのだ。それまで一度たりとも親に反抗などしなかった子供たちの豹変ぶりに、親の方が精神的に参っていたのだ。  親戚の伝手で俺はすぐにその夫婦と会った。そして霊媒師の言っていた憑き物は、ある地方で伝わる妖怪談を元にした架空の話だとわかったのだ。  普通なら馬鹿馬鹿しい話だと一笑に付すだろう。しかし、精神的に参っていた夫婦にとって霊媒師の言葉巧みな話術は、疑う隙を与えないほどだったらしい。  俺はそのモデルとなった伝承を調べ、古文書や関連する文献のコピーを示し、何度もその夫婦と会い説得を試みた。そして何週間もかけようやく、霊媒師の話は全てでたらめなのだと納得させたのだ―― 「妖怪や悪霊といった『非科学』など俺は信じない。だがそういった話は、昔から全国、いや世界各地にあるのも事実だ。だからそういった話がどうして生まれ、人々の暮らしの中でどのように変化していったのかを、わかりやすく理論的に繰り返し説明しただけだ。霊媒師の作り話の矛盾を浮き彫りにしてな」  俺は事実だけを淡々と語った。 「つまりヤナジなら『非科学的』な出来事も『理論的』に証明できると?」 「ま、まあな……」 「じゃあ決まりね。神社の御神体が泣きだし、それに合わせたかのように亡くなったはずの人が蘇っている。その真相、調べてくれるわよね?」  俺の中にいる厄介な好奇心が顔を上げ始めた。 「た、確かに、昔から全国各地の伝承や逸話として、死者蘇生の類も存在する。泣く石像とかもだ。だが俺が民俗学を学ぼうとしているのは、そういう非科学を否定するためなんだ。独学では限界があるからな」  言った直後、両肩に何かが圧し掛かる。 「非科学を否定?」  俺は全身に纏わりつくものを振り払うように続けた。 「ああそうだ。信仰や風習、幽霊話や呪いの類も結局はすべて非科学だ。しかし現実に存在している。なぜか? 人々の心の拠り所だからだ。ではなぜ拠り所が必要か? 人が生きていくためには自然を相手にしなければならないし、対して人間の力は余りにも小さい。そんなとき、どこか心の折り合いを持つことで安心したかったんだ。そうやってその土地に合った民俗文化が生まれる。しかし、時にはそれが紆余曲折を経て意図された悪意が加わり、あらぬ方へと暴走することがある。さっき君が言った事件のようにな」 「ふううん……」  わかったような、わからないような、そんな表情で彼女は首を傾げる。そしてあっけらかんと言い放つ。 「で、来てくれるのよね?」 「ど、どこへ?」 「わたしの村に決まってるでしょ。ちょうどもうすぐ夏休みだし。実際にその目で見て、その耳で聞いてもらうのが一番よさそうだからね」 「ちょ、ちょっと待て。まだ引き受けるとは――」  その言葉を遮るように彼女は上体ごと顔をぐいっと寄せ、俺の両肩を力強く掴んだ。 「どんな『非科学的』な出来事でも、きちんと『理論的』に説明出来るんでしょ? 往生際が悪いわよ、柳田仁(やなぎだじん)くん!」  そう言って美鈴は俺の肩をポンと叩いた。その顔は笑っているが目は笑っていない。しかしそんな彼女の瞳には、俺を惹き付けるのに十分な力がこもっていた。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!