ロベリア

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朝様々な色のランドセルを背負った小学生達がわいわいがやがやと登校する中。 一人の老人は自分の家の前で座っている。 様々な花に覆われている玄関に座っているおじいさんはまるで玄関と一体化した置き物のように微動だにせずに座っている。 私が下校した時もまだそこに座っている姿を見ると実は本当は置き物なのでは無いかと思ってしまう。 晴れの日も風の強い日も。雨の日はラベンダー色の傘をさしてそこに座っている。 そんなおじいさんに興味を示す人間はあまりいずポストに手紙を運ぶ郵便屋さんでさえ彼の存在を無視して通り過ぎる。 私達の登校班の集合場所がおじいさん家の前だったので必ずおじいさんの姿は目に入った。 強張った顔立ちのおじいさんの面持ちで日本人離れした彫りの深い顔立ちは人を寄せ付けない鋭い瞳は頑固者の偏屈なおじいさんと言う感じで、人が話し掛ける姿を見た事無かった。 そんな強面のおじいさんが話し掛けられない原因はそれだけでなく、おじいさんが全盲と言う事もあるだろう。いつからどんな理由で目が見えないと知る人はいなかったし、おじいさんの事を知りたいと思う人もいなかった。 派手な赤い杖の柄のとこに顎を乗せて一日中そこにいるおじいさんは一体何を考えているのだろう? 大きなお家に一人で暮らしているおじいさんの事を知っている人は誰もいない。 そんなおじいさんに声を掛けられる人間はこの世で自分だけなのではないだろうか? そう思うとちょっと嬉しかった。 この頃の私は学校の帰り道、自分の家に入る前におじいさんに『こんにちわ』と声を掛ける事が日課になっていた。 「お疲れ様冬子さん、夏子さんは元気かい?」 おじいさんは毎日私の事を冬子さんと呼び私も毎日同じように答える。 私の声は冬子さんと言う人の声に似ているらしい。 おじいさんが置き物じゃなくなる瞬間、とても不思議な気持ちになる。 「わたちの名前は冬子じゃないよ。だから夏子たんも(ち)知らないよ」 2年生に進級したものの私の言葉は舌ったらずでうまく発声ができずに、特にサ行とラ行がうまく話せない私だったが人の話している事は理解できている。 だけど、それを応用しようとすると全く意味が分からず人とうまくコミュニケーションが取れない。 幸いにも勉強だけはでき、母親はそれだけで満足だったようで、娘が学校で孤立している事などどうでも良くて、二人とも仕事でほとんど家にいない。 おじいさんが周りの人からないがしろにされているように私も私と言う存在を否定されていこの頃。 私とまともに話をしてくれたのはこのおじいさんしかいなかったから。 私はおじいさんと話せるのが嬉しかった。 おじいさんが話す話しは毎回毎回同じ内容だったのに私は飽きる事なくおじいさんの横に座り夏子さんと冬子さんの話を聞く。 「本当は冬子さんなんだろう?…夏子さんは一緒じゃないのかい?」 「おじいたん、夏子たんと冬子たんの話ち聞かてて」 夏子さんと冬子さんは双子の姉妹で見た目はそっくりなのに性格は全く違っていて、夏子さんは繊細な心を持った美しい人でいつも控目な清楚な薄い紫色のワンピースが似合う女性で腰まで伸びた長い黒髪が似合う人だとおじいさんが教えてくれた。 対して冬子さんは派手なイメージでいつも赤とか派手な服を着た元気いっぱいの女性だったらしい。 冬子さんと夏子さんの話をする時だけおじいさんの作り物のような目がキラキラと輝き出し、生き生きとした唇から言葉が溢れだす。 「夏子さんは花が好きな人で機嫌がいいと鼻唄を歌いながら香りの良い花を私に持ってきてくれたよ。私はその花を部屋に飾るのがいつも楽しみだった。夏子さんは地味な色が好きだったからいつも落ち着いた雰囲気の花を持って来てくれたけど、いつしか私の目が見えなくなった事に気を使ってからか花を持ってきてくれなくなってね…花を楽しむのは目だけじゃないから少し寂しかったな」 柔らかい秋風が金木犀の薫りを運んできて鼻をくすぐり、その風の先を追い掛けるとその先には紫色の花を持った黒髪の美女がワルツを踊るようにくるくると回っていた。まるで映画のワンシーンのようにくるくると回り続けていた彼女だったがこちらを振り返る素振りを見せた瞬間泡のように消えてしまった。 「おじいたんはその人の事ずき(好き)だったの?」 「…ああ、とても大切な人だったよ」 「そのいと(ひと)は今どこにいるの?」 「……、夏子さんは小さな頃から体が弱くて成人を迎える前に遠い田舎に引っ越してから滅多に会えなくなってしまってな」 「(そ)とうなんら」 「でも、週に一回は会いに来て色々な話をしてくれたなー。週に一回、月に一回、一年に一回……年々夏子さんは姿を見せなくなりそのまま……私は今も待ちぼうけになってしまった」 遠い日々を懐かしむように一点を見詰めたままのおじいさんはまた置き物になってしまうのでは無いかと思い不安になり、おじいさんの肩に手を置くとおじいさんの温もりを感じた。 おじいさんはもしかしたら夏子さんが来るのを待っているのかもしれない。 だから、こうして毎日毎日玄関のところで座ってるんだ。 「夏子さんと冬子さんで色々なところに行った。映画館に行ったり遊園地に行ったり…。面倒見のいい冬子さん、几帳面なくせにどこか抜けてる夏子さん。この二人といる時が一番楽しかった…だけど、いつしか私は夏子さんと二人でどこかに行きたいと思うようになってた。それを冬子さんに伝えると彼女は少し寂しそうな顔をしたけど快く背中を押してくれたよ。そう言えば、冬子さんは私がこんな風になってから一度も来てくれなくなったな。どうしてだろう?」 おじいさんは真っ赤な派手なデザインの杖でトントンと地面を叩いた。 「カッコいい杖だね!」 「ああ、これは夏子さんに貰った大切な杖なんだ」 おじいさんは杖を誉められてとても嬉しそうに笑った。 おじいさんの話を聞くようになってから私は何度も同じ夢を見た。 黒髪の美女と若い男の人が一緒にどこまでも広がった花畑の花を延々に詰む夢だった。 おじいさんと夏子さんは幸せそうな表情で次々の花を摘んでいった。 オレンジ色の陽が二人を包む中にもう一人夏子さんとそっくりな女性が二人の様子を静かに見ていた。きっと冬子さんだろう。 冬子さんはどこか悲しそうに二人の姿を見ていた。瞬きをする度に涙が溢れてしまうのでは無いかと思うほど、潤んだ瞳はふわふわと二人の姿を追い掛けていた。 そのうち冬子さんの表情が一変する。 血が滲むほど唇を噛み締め恐ろしくカっと見開いた眼は すると突然の強風が二人の摘んでいた花を空高く飛ばしていく。 冬子さんから伸びたどんよりとした暗い影が二人の姿を隠した。 夢の中でその時の冬子さんの表情にいつも恐怖を感じるのに起きると全く思い出せないまま目を覚ます。 こうして小学時代の私は毎日のように夏子さんの話を聞いて毎日のように夏子さんたちの夢を見ていた。 そんな私も中学生になる頃にはおじいさんの姿を見掛ける事はほとんど無くなっていた。 毎日忙しない生活を送っているとおじいさんの事を思い出す時間さえ無くなっていた。 部活はテニス部を選んだ。 特にテニス部に入りたかったとか言う訳では無くどちらかと言えば文化部に入りたかった私がテニス部を選んだ理由はテニス部のオリエンテーションを見た時、ステージ上でテニス部の事をキラキラとした瞳で紹介する彼の姿を見た時、テニス部に入ろうと決めた。 西陽がテニスコートに大きな影を作っている夕暮れ。 試合上では三年生の先輩達の試合が行われており、私はあちら側のコートに立っている先輩の姿に釘つけだった。 ボールを追い掛ける度に栗色の長い前髪が宙を舞い、華奢なシルエットがラケットを震わせて黄色のボールを打ち返す。 変形したボールが構えていた相手の脇を通り抜けコートの地面を急降下で落ちて行く。 一瞬の間。 「やったー」 と、先程までの鬼気迫る表情から一変し無邪気に喜ぶ先輩の笑顔を見るのが好きだった。 私は肩を叩かれてはっと我に返る。 「やっと気付いた。さっきから呼んでたんだよ!果夏ってそうやってぼーっとしてる事よくあるよね。何考えてたの?」 ネットを張り替えたばかりのラケットで自分の肩を叩きながら、白い頬をプクっと膨らませ黒目がちの瞳で私を見上げるのは私の友達の愛美である。 「あ、ごめん、ちょっと考え事してた」 胸が何かに捕まれたような、罪悪感に似たような気持ちになる。 愛美には絶対に言えない、絶対にしられてはいけない感情。 小学4年の時に転入してきた愛美は私とは全くタイプの違う人種なのに何故か私と気があった。同い年とは思えないほど落ち着いて女の子らしい愛美。異性からの注目をいつも浴びている愛美の彼氏が私達二人に近付いてきた。 「疲れたー、ワクド食べて帰ろー」 一つ年上の先輩が甘えるような声を出して小さな愛美の肩に顔を置いた。 瞬間、胸がズキズキと痛くなる。キリキリといつしか芽生えた見えない刃物で切られていく感覚。 先輩を好きになる前の私はそれまで男の子なんかに全く興味もない上、お洒落なんて言葉皆無だった私が自分の身なりを気にするようになり、髪には縮毛矯正をかけ、年を追う事に下がってきた視力のためメガネ生活を余儀なくさせられていた私はコンタクトデビューまでした。 それで自分の全てが変わるなんて思っていないし、そんなんで先輩の目に自分が映るなんて思っていなかったけど、それでもそうしている時間が好きだった。 告白なんて考えた事は無い。 そんな大それた事自分ができる訳無いし。 それでも去年のバレンタインデーはチョコをこっそり先輩のロッカーに入れた。 恥ずかしくて名前も書けなかったけど。 だけど。そのバレンタインデーの日。 校舎裏で先輩が愛美に告白する様子を偶然見掛けてしまった。 ああ。そうだよね、どんなに努力しても叶わないものがある。 胸が苦しい…。 鋭い刃が自分を傷付けていく。目には見えな鮮血が全ての景色を覆う。 「果夏はどうする?一緒に帰る?あ、また果夏がフリーズしてる」 気が付くと、先輩の手を取ってこっちを見ている愛美が小首を傾げてこちらを見ていた。 ああ、私の心の中の刃が今この瞬間を切り刻んでくれればいいのに。 口の中で鉄を噛み砕くいたような苦さでいっぱいになる。 こんなに苦しい想いをするぐらいなら全て消えてしまえばいい。 部室のロッカルームにかかっている鏡に 醜悪奸邪のような自分の顔を見てぞっとした。 これが自分…? 対照的な笑顔の後姿の二人を少しづつ伸びた影が闇に消えて行った。 「冬子さん、今日はお仕事お休みなのかい?」 その日の帰り道。久しぶりにおじいさんに声を掛けられた。 おじいさんに言葉を掛けられると先程までの拭いきれない気持ちが消えていくのが分かる。 久しぶりに見るおじいさんの顔は初めて見た時とほぼ変わっていないように見える。 おじいさんって不思議だね、初めて会った時もおじいさんだったのにあれからもう何年も経ってるのにおじいさんのままで。初めて会った時はいくつだったんだろう?って思ってしまった。 「私は冬子さんじゃなよ、おじいさん。おじいさんは相変わらずここにいるんだね」 「冬子さんなんだろう?どうしてそんな嘘をつくんだい?夏子さんはどこにいるんだい?」 腰を屈めておじいさんと目を合わせてみたけどおじいさんの目に私は映っていないようで、一点の空を見詰めたまま何度か瞬きをした。 以前見た時よりくぼんできた瞳は更に緑がかっており、その瞳が時間の流れを確実に表していた。 「おじいさんは夏子さんが来るのを待っているの?」 「ああ。夏子さんはきっと会いに来てくれる」 「そっかぁ。きっと会いに来てくれるよ…おじいさんはその目を失ってからも夏子さんの事は見えていたんだよね?」 「……………」 昔からそうだった。私から目の話をするとおじいさんはこんな風に黙ってしまう。 「夏子さんに会いたいな。夏子さんに会ってたくさんお話ししたいな」 おじいさんは地面を杖でトンと叩きくるくると回してみせるとその先に昔のように黒髪の女の人が現れた。 幻の中にいる彼女にはいつもの笑顔は無く暗く沈んだ表情でおじいさんを見ていた。 その眼はおじいさんしか見ていないようだったけど、じっとこちらを見ている顔はとても恐ろしく目を反らしてしまった。 次の日おじいさんが亡くなった。 突然の事で何がどうなったのか分からない。 昨日まであんなに元気だったのに。 おじいさんの親戚はあまりいなかったみたいで数日バタバタと人の出入りがあったもののしばらくするとパタッと落ち着いた。 おじいさんのいなくなった家……。 おじいさんが亡くなった事今だに信じられず私はおじいさんが毎日座っていたところに腰を降ろした。 どれだけそうしていただろう? 途方もない時間だと言われれば長く感じられたし、一寸だと言われればそんな気がした。 「あのー…」 気付くと歳は私とそう変わらないと思える一人の女の人が私の前に立っていた。 清楚なワンピースを着た女性は真っ黒の長い髪を突風から守るように白くて細い手で抑え微笑んでいた。 私この人知ってる。 「貴女夏子さん?」 自分の口から当然のように彼女の名前が出たことには少なからず驚いた。 彼女はじっと私を見ていたがそれには答えず静かに息を吐き、美しく色付いた唇が開いた。 「初めまして。かな?こうしてちゃんと会うのは」 彼女はおじいさんの赤い杖を大切そうにさすってからクルクルと踊るようなステップを踏んで彼女は私の手を取ると、ヒンヤリとした感覚が指の先から伝ってくるから咄嗟に離してしまった。 彼女は別段気を悪くした様子も無く、 「いつも優ちゃんのお話しを聞いてくれてありがとう」 優ちゃんって言うのは恐らくおじいさんの事だろう。 彼女はおじいさんの玄関に咲いていた花を一本摘んでは手の中で握り締めパラパラと花ビラを落した。 ぞっとするほどの冷たい風が私の横を通り過ぎる。 何だろう?胸がざわざわする。 「優ちゃん、1つだけあなたに話さなかった、話せなかった事があったからそれを伝えに来たの」 彼女の手が私の頬に触れると背筋が凍るほどの冷気を感じたが振り払う事もできず、自然と視線が彼女を直視してしまう。その瞳は硝子玉のように美しいけど何の感情も感じられなかった。 彼女はゆっくりと私のオデコに自分のオデコを合わせた。 『ごめんね、優ちゃん……今までありがとう……』 1つのビジョンが脳に映しだされる。 夢の中のような不安定な空間の中見たことの無い景色に私はいた。 穏やかな夕暮れ時、耳障りなセミの鳴き声と踏み切り警報器の音が重なる。 遮断機の向う側からこちらを振り返る清楚な美女がいた。 キレイな黒髪が風に煽られはっきりと表情が見えた。 ワナワナと震える形のいい唇大きな瞳は今にも溢れそうな涙を浮かべながら言葉を紡ぐ。 『優ちゃんごめんね、ごめんね……私の病気良くならないみたい…』 止めなきゃ、彼女をこちらに連れて来なきゃ。 でも、体が動かない。 『夏子さん!』 隣から一人の男性が遮断機に近付いた時、電車が通り過ぎた。 「優ちゃんはね、この日から視力を失ってしまったの」 既に夏子さんは私から離れて道の真ん中で杖をくるくると回していた。 まさかおじいさんの過去にこんな事があったなんて…。 視力と一緒にこの日の事も消してしまったから、おじいさんはずっと夏子さんを待っていたんだね。 でも……。 何かが引っ掛かる。 おじいさんを連れて行ったこの人は夏子さんなの? 「……あなたは夏子さんなの?冬子さんなの?おじいさんを連れて行ったのはあなたなの?」 私の問いにおじいさんの杖をくるくると回していた彼女は動きを止め薄く笑った。 その笑みの真意を考えあぐねていると、突然の強風が私達の間に吹き乱れ、どこから飛んできたのかたくさんの花が宙を舞う。 あれ?何かこの光景懐かしい。 無数に落ちてくる色とりどりの花ビラが彼女を包み込み、彼女を型どったと思った次の瞬間パンと弾けるように花ビラが飛び散り、彼女の姿は消えていた。 え? 彼女の姿はどこにも無く、後には深い闇の中真赤な花ビラが散らばっていた。     
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