4.木下翔子 Ⅰ

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4.木下翔子 Ⅰ

あの肝試し騒動からややあって、私は今進路指導室へと呼ばれている。 別に先日の一件がバレたとかそういうことではない。私の進路の件で話し合いがもたらされるのだ。 進路指導室では担任教師と母親がすでに談笑を交わしているところだった。 「失礼します」 ノックをして入ると二人の視線がこちらに向けられる。私は母の隣に腰掛けた。 「木下さんは進学をご希望とのことですが、ご両親は留学も視野に入れているとお聞きしました。木下さんはどう考えていますか?」 「興味はあります。ただ、不安も大きくて…。」 海外に行くことは思っていたより怖いとは感じなかった。 私はいつか翻訳の仕事がしたい。 そのためにも海外経験や本場の語学学習はいずれ必要になると思うし、早々に留学を経験できることは悪いことではなかった。 ただ心配なのは英司のことだった。 私達は中学入学と同時に交際を始めた。 もともと付き合い自体は長かったし、そうなるのは自然の流れのように感じていた。 しかしそうは言っても、英司はとにかくモテるのだ。 私は真面目を絵に描いたような人間で、大して交友関係が広いわけでもなければ美人なわけでもない。どちらかと言えば地味だ。 役職についているわけでもないのにいつのまにか委員長なんてあだ名を付けられてしまうような人間なのだ。 それに引き換え、彼は頭がいい上に人当たりもよく、おまけに顔の造作まで整っていた。 天は彼に二物も三物も与えたのだ。 留学はそんな彼との物理的距離を大きく引き離してしまうものだった。 今までずっと一緒だった私達は、これまで離れるということをしてこなかった。 それなのにいきなり海外だなんて。 そんな途方もない距離を長期間離れて過ごすということに、不安を感じないはずがなかった。 「地元の学校でも国際留学プログラムを完備している学校はありますので、高校入学してから決めてもいいとは思います。こちらがその学校の案内になります。」 担任教師は目の前にいくつかのパンフレットを並べていく。 正直どこだってよかった。 そんなことは些細な問題に過ぎなかった。 ぼんやりと学校名を眺めていると、その中に一つ見覚えのある名前があった。 英司が行こうとしている学校だった。 「あ、ここ…」 私が唯一反応を示した学校を見て、担任はどこか満足そうに頷いていた。 「お母さん、木下さんの学力ならそちらの学校も問題ないでしょうし、入学を決めてから留学の件、ご検討されてみてはいかがでしょう?」 「そうですね、この子あまり希望を言わなかったからどうしたものかと思っていたのですが、安心しました。」 母は詳しい案内の資料を担任から受け取り、その日の面談は無事に終了した。 「お母さんこのあと駅の方に寄ってから帰るけれど、翔子ちゃんはどうする?」 私は教室で友達が待っているからと言って、母とはその場で別れた。 教室では英司が私のことを待っていてくれた。 「おかえり。面談おつかれさま。」 静かに微笑みかける英司に私はホッとする。 「みんなは?」 「大悟は家の手伝いだって言ってすぐ帰ったよ。ひなのと恭平は用事あるからってついさっき出て行ったところ。」 英司はちょうど読み終えた本を鞄にしまい、立ち上がる。私の頭をぽんぽんと撫でた。 「そんな感じだからさ、今日は久しぶりにデートしようか。」 彼の口から発せられる「デート」という言葉にわけもなく胸が高鳴る。英司は鞄を肩にかけ、行こうと言って歩き出した。 このあたりでデートできる場所は限られていて、私達は通学路の途中にある喫茶店に立ち寄った。そこの店主は英司の父の学友らしく、私達は結構その店にお世話になっている。 店の扉を開けると入店を知らせるベルがカランカランと鳴った。店主は私達に気付くと笑顔を浮かべた。 「お、久しぶりだな英司。翔子ちゃんもまた一段と綺麗になったんじゃないか?」 「ちょっとおじさん、人の彼女を口説こうとするのやめてくれません?」 冗談を交わし合い、英司はコーヒーを、私はミルクティーを注文する。 最近はもうすっかり夏の気配も薄れ、肌寒くなってきていた。ホットの飲み物が美味しく感じられる季節に移り変わろうとしている。 「そういえば翔子、面談はどうだった?」 私は英司と同じ学校への進学を希望していること、留学の話があがっていること、どうするべきか悩んでいることをそのまま英司に話した。 「へぇ、すごいじゃん留学か。海外とか行ってみたいけどなかなか機会なんてないからな。いいじゃん、やってみたら?」 英司の言葉が私の心にトゲのようにチクリと刺さる。 「そんな、他人事みたいな…。」 英司は私とは違って不安に思ったりはしないのだろうか。 「そういうつもりじゃないさ。」 苦笑しながら彼はごめんと謝る。 注文した飲み物がテーブルに運ばれ、私はティーポットから熱い紅茶をカップに注ぐ。 ミルクを入れてスプーンでくるくるとかき混ぜると白い模様が渦を巻いた。 私の今の心模様を映し出しているかのようだ。 「なにか、言いたげな表情だね。」 顔を上げると英司がじっと私のことを見つめていた。 見透かされたようで、また少し不安が募る。 「英司は…不安じゃないの?」 嘘をついても仕方ないので正直に問いかける。 「不安?」 「海外なんて、すぐに会えるような距離じゃないじゃない。そんなに離れてしまっても大丈夫なのかとか、そういうの、不安じゃないの?」 「ああ、そういうこと。」 英司は納得したように頷き、コーヒーのカップに口をつけた。 「翔子はさ、なりたいものがあるんだろ?」 英司は静かにそう聞いた。 私は頷いてみせる。 「それなら迷うことはない。やりたいことをやったらいいよ。今ほど頻繁に会えるわけじゃないけど、俺たちはこの先もう会えないってわけじゃない。そうだろう?」 彼の言わんとしていることはよくわかった。 たしかにそうだ。 私達は違うのだ。 「それなら、答えは見えてるんじゃない?手紙だとか電話だとか、連絡手段なんていくらでもあるだろうし、それはその時になったら考えればいいよ。」 カップをソーサーの上に置くと、英司は真面目な様子から一転し、軽い調子で笑ってみせた。 「それにさ、俺たちの関係はその程度の距離くらいで崩れてしまうほど脆いものなんかじゃないだろ。」 「そうね。」 私の心はすっと軽くなっていた。 彼はいつもこうして私の力を上手いこと抜いてくれる。 その温かさは、この手にしているミルクティーに似ているなと思った。
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