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二.
セナツの住む、ミユキ村。この村には、雪が降らない。だから、ミユキというのは未雪と当て字で書くことができると幼い頃に教わった。
なのに、いつもセナツが見る夢では、雪の景色が度々出てくる。その理由はセナツ自身、よくわかっていない。
気にならないわけではないが、彼は今日も祠のある森へと向かう。
そこは、セナツの家からさほど遠くなく、距離にして十町もない。山の麓に住んでいるのだから、森の入口に近いのもまた当然だった。
「セナツです。失礼いたします」
他人から見ればただの獣道、だがセナツにとっては祠へ至るための神聖な道であった。名乗ることはかかしてはなららない。頭を下げて、森の中へ入る。
今日は晴天だというのに、冬が近いからなのか、どことなく寒いうえに木々はもちろん、雑草も以前よりのびており、暗い雰囲気だった。
そう、雪は降らないが、冬は来る。まだ四季の概念は残っていた。
「祠の掃除をしたら雑草抜きもしないといけないな」
はぁ、と白い息をはきながら慣れた道を歩く。少し開けた、そこへ着いたときにセナツの足が止まった。前方に人影が見える。
「誰かいる……。珍しいな」
セナツか母親のハルセくらいしかここに来る人はいない。だが、全くいないわけではないから、この人は偶然そばを通りかかって祠を見つけたからお参りにでも来たのだろうか、と彼は思った。
近づくにつれて、その人が女性らしいことがわかった。真っ黒の艷やかな長い髪は腰より下まであるほど長く、ひとつに結われている。
セナツはこんなに髪の長い人を見たことがなかった。
「……あの」
「あ、っ……」
彼が声をかけると、女性は小さく声を出して驚いた表情で後ろをふりかえった。
セナツが見た彼女の顔は、とても整っていて――初めて、大人の女性を美しいと感じた。母親のことをきれいだと思わなかったことがないわけではないが、他の村人にも思わなかった感情だった。
「ごめんねぇ、邪魔だったね」
「え、あっ……いえ、いえ、そんなことは」
謝られたセナツはあわてて気にしないでくれというように否定する。彼女は肩から前に垂れ落ちてきた一筋の長い髪を、するりと流すように手で背中へ押しやった。
「何か、困ってるのかと思って……」
「そんなことはないよ、ありがとう」
「良かったです」
女性の返事を聞いたセナツは子どもらしい、柔らかな笑顔になる。それを見た彼女も、目もとをゆるめた。
「あなたは、よくここへ?」
「はっ、はい。おいらがお世話をすることになってるので」
「……そう。もしかして、毎日来てるの?」
「じゃないと、この祠が……神様が、かわいそう、だから」
人があまり踏み入らない森の中。誰かが世話をしなければ、放置される一方の祠は、埃をかぶってしまうだろう。セナツがお世話係として任命されたわけではなく、なんとなく、それこそ“勝手に”始めたのだった。
『お母さん、ここのお掃除、お母さんがやってるの?』
『誰かがやらないといけないからねぇ』
『じゃあおいらもやる!』
『そうかい? それなら、セナツにお願いしようか』
そんな会話をしたのは数年前だ。それから、母親のハルセは、祠の世話をセナツに任せるようになった。
「名前を尋ねても?」
「あっ、はい。おいらは、セナツといいます。ハナヤセナツ」
「ハナヤセナツ……美しい名前だこと」
「ありがとうございます。母の名前は、ハルセ……ハナヤハルセ、というのですが、ハルが入っているからナツを入れたと言っていました」
少し前に、母親から聞いたことをセナツが語れば、女性は微笑んでうなずきながら聞いていた。彼は、女性が話を聞いてくれていることに嬉しくなってしまった。
「二人で暮らしているの? お父さんは?」
「父は……出稼ぎに出たまま帰ってこなくて、もう五年は過ぎたって、母から聞いています」
「そうなの。それは寂しいわね」
「もう、母との生活に慣れましたから」
「……では、帰ってきてほしくない?」
「そんなことはないですけど……」
セナツは思わず地面を見る。記憶にぼんやり残る父親の顔が、うっすら浮かんだ気がした。
彼は、とっくに父は死んでいると思っていた。以前は五年も帰ってこないということはなく、たとえ長くても三月だった。だから、こんなに帰ってこないということは、もうこの世にいないのだと考えるのがセナツにとっては自然なことだった。
「もし、私が――、セナツの父親を連れて帰ってきたら、私のお願いを聞いてくれる?」
「……え?」
あまりにも唐突な問いかけだった。セナツは、わずかに目を開きながら女性の顔を見上げた。
「名乗るのが遅くなってしまってごめんね。私は、ユキと申します」
ユキ。彼女は微笑んでゆっくりと頭を下げた。そして、再び頭を上げ、呆然とした様子のセナツを見る。
「行くあてもなく、旅をしているの。ついこの前、ハナヤアキナという男性と知り合って」
ハナヤ、アキナ。それは間違いなく。
「父の名前……!」
セナツは、やっと時が戻ったように息をのんで一言、発した。
「ハナヤという珍しい名前だからもしかして、と思ったらやっぱりそうだったのね」
「あの、父は、どこに……」
「それは言えないの。セナツが本当にアキナのことを待っているというなら連れて行けるけれど」
ユキのいうことは、どこかちぐはぐだ。父のことを知っている、連れてくることもできるというわりに、セナツの心を確かめようとしてはぐらかしている。本当は、やはり父のアキナはいないのではないかとも思える。
それでも、死んだと思っていた父が帰ってくるのなら、母も喜ぶはずだ。
「……わかりました。もし、ユキさんが父を連れてきてくれたら、お願いというものをなんとか……叶えたいと思います」
「それは良かった。約束よ」
「は、はい。ユキさんのお願いとは、なんですか?」
子どもの自分にもできることなら、とセナツは決意をかためた。
「ハルセに会いたいの」
「……母に?」
「ええ。アキナは、ハルセがどう思っているのか、気にしているみたいで。アキナを連れて行くから、私にも会わせてくれない?」
五年も帰らなかった父。確かに、急に帰ったらハルセが驚くことだろう。ユキに確かめてもらうほうがよさそうだった。
「わかりました」
「ありがとう。なら明日、お昼前くらいにいくから。おうちは近くよね?」
「はい、この道をまっすぐ下りていったところです」
家を教えてはないが、父から聞いたのだろうと思ったセナツは、目で示した。ユキは、視線の先を見て確認したように軽くうなずく。
「なるほど。ではまた、明日。よろしく」
「はい。さようなら」
ユキはアキナがいるらしい場所へ一度戻るようだ。セナツは素直にうなずいて、彼女の姿を見送った。
「さて、掃除をしなきゃ。そう、雑草を抜くのもやっちゃわないと」
ここへ来た目的は祠の世話だ、やらないわけにはいかない。セナツはさっそく掃除をはじめた。
◇
家に戻ったセナツは、早速ハルセに先程の話をすることにした。
「お母さん、明日、びっくりすることがあるよ」
「おやおや、なんだい?」
「なんとね、お父さんが帰ってくるんだ!」
ハルセはきっと喜ぶ、そう思ったセナツが彼女のほうをみる。だが、ハルセの表情は明るくなく、光を失ったような暗い瞳がそこにあった。
「なんだって……?」
「お父さんが、帰ってくるよ」
何を言っているのだろう。
そう思いながらセナツが繰り返すと、ハルセは息子を睨んだ。
「帰ってくるわけないだろう。アキナは、手前の父親は私達を捨てたんだ。今更帰ってくるわけない。寝ぼけたこと言ってんじゃないよ!」
「っ……」
いつも優しい母の変わりようにすっかり怯えてしまったセナツは、そうだね、と返すので精一杯で、口をつぐんでしまった。
これでは、明日連れてきてくれるといったユキに申し訳ない。家の前に立って、やはりアキナは、そしてユキもハルセには会えないことを伝えなければならない。
―喜んでくれると思ったのに。
父を待っているのは、どうやらセナツだけだったらしいことに、そうなって初めて気がついたのだった。
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