1.彼女の仕事

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1.彼女の仕事

 4丁目交差点でタクシーを降りると、彼女は手にしていたリネンのサマージャケットを羽織って歩き出した。もっとムッとした熱気が襲ってくるかと思っていたが、外は意外に涼しい。旧盆で休みの会社が多いのか街に人が少ないせいかも知れなかった。  彼女は時宗空美(ときむねくみ)24歳、総合印刷会社に勤務するOLだ。背の高い空美は銀座の裏通りでも人目を引く。それを充分意識してパンツスタイルにフラットパンプスを履き、手には中流ブランドのバッグを提げていた。これ、空美の給料では仕方のないところだった。空美は短大を出て4年目、会社では地味に業務補佐をしている。そして今日は久し振りの女子会というわけだ。  「クミ~! ここ、ここ。」 大きな声で名前を呼ばれ、空美はその店の入口で待つ山際小百合に手を挙げた。 「小百合~、早かったねえ。」 「だから、お使いで銀座にいたから。直帰させて貰ったの。」 「お宅の課長いい人ね。」 「ぜ~んぜん。グズグズ言われたよ。明日は早出するって事で了解貰ったんだから。」 「な~んだ。」 二人は予約済みのレストランへ入る。案内された席にはすでに今日のメンツ、同じ営業推進部の橋爪京子と業務部の山本みどりが席に着いていた。はやくもビールが始まっている。4人揃ったところで話しの花が咲き出す。そしてお決まりの恋愛話である。 「クミはいい人いるの?」 「いません。」 「ケンちゃん、ケンちゃんは?」 軽く否定する空美に小百合がここぞとばかりに突っ込む。 「関係ないわよ。」 「ああ、営業の端〆(はじめ)さんね。」 京子が言う。 「どうなの? 進展した?」 進展も何も自分が担当する営業部の端〆先輩は空美の憧れの人だったがもっぱらの片想いで告白など出来るはずもない。 「だからさ、お酒でも飲ませて抱きついちゃえばいいのよ。クミくらいの器量なら若い男なんてすぐ食いつくって。」 続けるのはみどりだ。この子は相当の肉食系で有名である。小百合にはバレバレだったが空美はまだバージンでそんなこと出来るはずもなかった。とはいえ、 「切っ掛け作りにいきなりエッチも悪くないわね。」 と空美は答えてみせる。 「でもさ、クミには幼馴染みのいい人がいるんでしょ?」 小百合の振りで今度は中学の同級生カオルのことで冷やかされる。でも、カオルとは恋人未満で友達感覚だ。そろそろ卒業かという雰囲気に今はなっていた。  恋愛話が盛り上がり終わると、話しは自然と仕事のことに移っていく。と言っても、建設的なことなど何もなく、愚痴話に終始していた。 「まあ、責任は全部男の人たちに任せておいて。こっちは貰ってる分作業手伝えばいいんじゃない?」 そう言うのは小百合だ。確かに小百合はそう言うタイプだった。実家はお金持ちでいずれは田舎に帰るのだろう。ただ、空美にはそういう4年の社会人生活に飽きてきていたのも事実だった。 「でもさ、お手伝いって言うのも飽きちゃったなあ。私にも何か出来ないかと最近考えてる・・・。」 ただ、じゃあどうすればいいのか、そんなことは分からなかった。でも何か切っ掛けでもあれば・・・空美はそのことは3人に話さなかった。      「はい。営推、時宗です。」 デスクの電話をベル3回までに取る。課長がいつも言っていることだ。部署と名前を名乗って語尾は伸ばさない。空美は教えを守って電話の番をする。掛かってきたのは、営業の犀川(さいかわ)課長だった。 「やあ。クミちゃん? BUの方面別チラシOK出たんで、あと宜しく頼む。」 「はい。印刷はどこですか?」 「東半印刷だ、な。」 「了解です。」  電話を置くと、空美は席を立ってエレベーターホールへ向かった。急ぐでもなく、ゆるゆると歩いて。途中別の課の山際小百合と出会うと、昨日見たドラマの話題で盛り上がった。なので、営業フロアに到着したのは電話から20分後である。課の空きデスクにOKシートが置いてあり、それを校了紙(こうりょうし)にして下版(げはん)するのが彼女の役目だ。  「ああ、悪いね。ちょっと待ってて下さい。」 その席にいたのは意外にも端〆健壱(はじめけんいち)だった。BU通信は端〆の担当ではないはずだが。端〆は得意先から戻ってきたチラシのプルーフの最終赤字をチェックしていた。ここで間違いは禁物だ。得意先はチェックしてOKを出していても事故れば分が悪いのが受注産業である。それで端〆は再校の赤字とOKプルーフを見比べていたのだ。  端〆は真夏でも半袖のワイシャツを着ない。長袖をまくり上げていた。クールビズでみんながノータイでいる時期でもネクタイを緩めに結んでいる。外出の時にはそれをキリリと締め直して出かけて行く。空美は普段からそんな端〆を格好いいなあと思っていた。  「よし。これで大丈夫だ。あとは伝票通りで。これがリスト。宜しくお願いします。」 端〆は空美にOKプルーフ15枚と受注明細のコピー、方面別の最終部数と納め先が掲載されたリストを渡した。 「はい。承知しました。」 おずおずと答える空美。これを営推フロアに持ち帰り、校了付箋(こうりょうふせん)を出力して、リスト通りプルーフに貼って、製版の下版担当に持って行く。そして下版された版(つまりデータ)を下請け業者に渡るように外注下版ノートに書いておく。やることはそれだけだった。  「クミちゃん、ご苦労さん。今度飲み会やるから来てよね。」 犀川が空美に声を掛けながら軽く肩を叩くと廊下へ出て行った。 「課長、それ駄目ですって。」 端〆が課長の背中に言う。が、空美はさして気にもしていない。会社ってこんなもんだろう。おじさんてそう言う人たち、そう達観していた。  空美は材料をまとめて抱えると再び営推のフロアへ戻った。空美が作業をしているとまた山際小百合がやって来た。小百合はいつでも社内をふらふらとうろついている。 「空美、夏休み田舎帰るの?」 いつもの甘ったるい声で小百合が言う。 「たぶん、帰らない。」 「なんでー? 田舎に彼氏とかいないのお? 例の幼馴染みとか。」 「いない、いない。あいつとはもう別れるわ。」 「え~!? そうなのお? あたしもどうしようかなあ・・・。」 「帰ればいいじゃない。信州の老舗旅館の一人娘なんだからさ。」 「田舎帰る理由になってない~。」  空美は貼り終えた付箋の記載番号とプルーフに書き込まれた番号を照合する。 「ねえ、クミ。どっか旅行しようよ。」 小百合がそう提案するが、空美は最後のチェックに余念がなかった。これを貼り間違えたら大事故になる。 「ねえ、クミ~。」 「ちょっと待ってて。これ間違えると大変だから。」 空美が言うと小百合も黙る。 「あれ? 6番甲信越版が2枚ある!」 リストも見るが甲信越版が2種類あるなどとはなっていなかった。  「小百合、ちょっと神経衰弱。」 空美は小百合に校了付箋を貼り付けたプルーフを向けた。 「え~? 何それ~。」 「いいから、いいから。」 空美はリストを読み上げる。 「1番。首都圏版。いい? あるね?」 「はい。ありま~す。」 小百合は語尾を長く伸ばしながら1枚のプルーフを脇に弾いた。 「次ぎ。2番。関東版。」 こうして空美はリストを15番まで読み上げていった。 「ああ、もう。これ私の仕事じゃないよお。」 小百合は飽き飽きという態度で空美の席を離れていった。 「6番が2枚ある・・・。6番は甲信越版。ないのは11番の南東北版だ。どっちかが南東北版ってことか・・・。」  空美は同じ6番と書かれたプルーフ2枚を手に再び営業フロアに戻って行った。だが営業フロアはほぼ無人だった。犀川課長のところは全員が出払っている。課長以下誰もいないのだ。確認する術がなかった。 「困ったなあ、どうしよう。もう時間がないよ、そろそろ校了紙流さないと下版できなくなっちゃう。」  部長席に部長はいるが、部長では何も分からないだろう。空美は意を決して外出簿に書かれている端〆の携帯に電話を入れた。  「はい、端〆です。」 「端〆先輩ですか? あの、営推の時宗です。」 胸がドキドキするのは階段を上がってきたせいか、恋の高鳴りか。空美は状況を端〆に説明した。端〆はプルーフの左上にあるネームを空美に読ませると甲信越版と南東北版を指示した。空美は付箋を貼り直すと席へ戻る。  考えてみれば簡単なことで、なんで自分はこんなことに気が付かないのかなあと落ち込む。プルーフへの指示とリストは見てるがチラシの本文など見てはいなかったのだ。方面は本文の冒頭に書かれていた。とはいえ空美の気持ちは小百合に誘われた今夜の飲み会に早くも切り替わっていた。      そんな4年目の夏、一夏の恋を求めてなんてことでなく、たまたま夏休みに土日を絡めて7日間の連休になったことから空美は一人で旅に出ることにした。空美の勤める大東京印刷はお盆シーズンを避けた8月下旬から9月の上旬にかけて部門ごとに夏休みを取る。今年は空美たち事業部の夏期休暇は9月5日からだ。これで土日に繋がったのである。  実際営業推進の仕事は結構忙しく、一、二時間の残業はしょっちゅうだ。それで家に帰り着くのは8時、9時である。遅い食事は簡単なものを自炊して、お風呂に入って、ビールを飲んで、テレビを見てたらもう夜中という毎日だった。だからこそ何の計画もなく、行き当たりばったりに、誰に気兼ねもなく、自由な旅をしようと小百合の提案を断ってこの旅行を思い立ったのである。  空美は昨年軽自動車を買っていた、会社で格安のローンを組んで。その愛車にカンナちゃんと愛称を付けているところが何ともだが、未だにたいした距離は走っていない。だから車で行く先を定めない気ままな旅をしようと決心したのである。
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