2.山道を走る

1/1
前へ
/30ページ
次へ

2.山道を走る

 「カンナちゃん、最高だね!」 空美はそう叫びながら高速道路をひたすら北に向かって走った。ついついスピードが上がるのを注意しながら快晴の中、車を走らす爽快感に空美は浸っていた。  空美が愛車にカンナちゃんという名前を付けたのは車体のオレンジ色がカンナの花を連想させたからである。この花は中学校の校庭に植えられていた。カオルとの思い出の花なのである。カンナの花は他にも種類があるのだが、空美の中でカンナと言えばオレンジ色だったのだ。  さて、初日空美は東北道を郡山のひとつ手前で降りた。そこで一泊すると、2日目は一般道を西に向かう。何とか寺院だの、何とか温泉だの、観光を楽しみつつ空美と愛車は西へ向かった。目的地もスケジュールも決めていないのだから、渋滞のないところを狙って走ることも出来た。まさに空美は自由を満喫していた。  「大東京印刷の時宗と申します。お世話様です。」 空美はクルマを路肩に停めると、ガイドブックから選択したホテルへ電話を入れた。女の一人旅が珍しくないご時世ではあるが、それでも注意しなくてはならないこともある。当日の飛び込み宿泊は基本嫌われる。泊めて貰えないことも多いのだ。自殺でもされては大変と思うのかも知れないが訳有りな感じがするのは否めない。 「よろしいですか? 助かります。車で向かってるんですが、夜7時くらいには着けると思いますので、宜しくお願いします。」  空美はテキパキと仕事のように電話で話した。車で向かっていることも安心材料のはずだ。予約係の男性は出張かと思ったはずである。女性の社会進出は大きな流れだ。  その男性は条件を復唱して最後に、 「お待ち致しております。」 と慇懃に言ったものだ。      空美が押さえたホテルは新潟県長岡市の観光ホテルだった。この時空美はまだ福島県内にいた。今度は日本海を見てみようとたった今思い立ったのである。自由だった。  空美のクルマにはナビシステムが装備されている。だが、地図の読める空美はまず地図で目的地域の見当を付けた。それで近くへ行ってからナビを使うのである。女は地図が読めないというのは偏見だ。  もうひとつ、女の一人旅で注意しなくてはならないのが安全の問題である。危ない所へは近づかないのが一番いいのだが、クルマは必ずロックしておき、人の侵入を許さないことを空美は肝に銘じていた。その上で防犯ブザーは複数個用意していた。ひとつは自分のベルトに括り付け、カバンの中やクルマの中にも置いてある。  時刻は午後6時前、この季節まだまだカンカン照りだ。空美は地図で峠越えのコースの見当を付けた。ここから日本海側へ抜けるには山間部(東北山脈)を抜けなくてはならない。もちろん磐越道に乗る手もあるが高速道路で移動するのは旅とは言いがたいではないか。空美は敢えて自動車専用道路を避けて長岡へ向かうことにした。  「山道上等! 2時間あれば着くわ。」 空美は一人でそう言うと再び走り出した。空美の愛車は4輪駆動車だ。街中を抜け、クルマはいよいよ峠道へと入ってきた。ここまで来るとすでに9月ということもあって車の通行はまばらである。 「あと1時間ちょっとか・・・。」 独り言のように空美は思ったことを口にすると、クルマを路肩に停めナビを確かめた。  「げ。結構掛かるなあ。」 ナビが示す経路はこの峠道を真っ直ぐだった。東北山脈を大きく迂回していく道順である。ナビは到着予定時刻を午後8時40分と表示していた。  空美は再び長岡のホテルへ電話を掛けた。 「もしもし。私、先ほど予約させて貰った時宗空美と申します。実は・・・。」 到着が遅れる旨を告げて空美は再び走り出した。もともと食事は付いていないので長岡市内に入ったらどこかで食べれば済むことである。      空美はヘッドライトを点灯し林の中へ車を進めた。すでに宵闇が迫って来ていた。しばらく走った後空美はまたクルマを路肩へ。地図帳を取り出すともう一度道を確認した。次のページへ続いている峠道をページをめくって辿ると、すぐ先から1本の脇道が延びていることに気が付いた。その道はまさに山裾を巡りながらそのまま長岡へ続く県道666号線に繋がっている。  「なんだ。近道があるじゃない。」  ナビが選択しなかった道だ。空美はナビの画面をスクロールさせてみた。  「あるねえ。林道かな? だからナビは経路に選択しなかったのか・・・。」 空美は再び地図帳を広げるとその林道を辿る。山裾をくねくね走って間違いなく日本海側へ向かう県道に接続していた。スピードは出せないにしても距離的にはせいぜい30~40分というところだろう。      「よし。カンナちゃん行こう!」 空美は相棒に声を掛けるとクルマを再びスタートさせた。陽はすっかり暮れてしまった。だが空美は全然元気だ。余り乗っていなかったクルマだが、今は走る楽しさを感じてさえいた。こいつがあれば私はどこへでも行ける。そんなことを思っていると、林道への分かれ道はすぐに現れた。  「これだ、これだ。」 空美はそう言いながらゆっくりとハンドルを切ると車1台分の道へ揚々と入り込んだ。林道はきちんと舗装されている。暗い林間のコースをかなりの傾斜を登りながら走ると、やがて山裾の道に出た。 「これなら問題なし。長岡で何食べようかなあ。カンナちゃんにもガソリンたっぷりあげるからね。」      時宗空美は長岡へのショートカット、近道である林道を走り出した。1車線といっても軽自動車には余裕の道幅だ。所々路肩に待避所があって対向車とすれ違うことも出来るようになっている。ミラーも急カーブの場所には設置してあり、地元の人たちは普通に使っている抜け道だと思われた。もっとも真っ暗になったこの時間走っている車は空美のカンナ号だけだったのだが。  道幅やカーブの感覚に慣れた空美は右へ左へカーブを回りながら軽快に車を走らせていた。大分登って来たようで、すでに右側は断崖になっている。もちろんガードレールも設置されており、ナビがこの道を指示しないのはバグではないかとさえ思われた。崖の下は深い谷で、真っ暗な底は見えない。今晩は月さえ出ていなかった。  闇の中を車のライトだけを頼りに空美は走り続けた。この道へ入ってから対向車はもちろん後続車も遠い山裾にも他の車の姿はひとつとしてなかった。空美はひたすら走り続けた。  気が付くとすでに30分が過ぎている。 「そろそろ、かなあ。」 愛車に何の変調もなく勇気百倍の空美だったが、ナビが動いていないことに初めて気が付いた。現在地ボタンを押してみたりしたが、ナビの方向矢印は山中のあらぬ所で停止している。  少し行くと待避所があったので空美はそこへ愛車を入れると一旦エンジンを切った。ナビのリセットをするつもりだったのだ。コンソールのLEDが消え、車内も闇に包まれた。エンジン音が消失すると闇と同時に静寂が襲ってきた。何の音もしない。  空美はクルマを降りると辺りを見回した。9月とは言えこの標高では寒いくらいだ。そして見える景色は星明かりが届く僅かな範囲だけ。真っ暗闇に近かった。虫の声、鳥の声も聞こえてこない。無音の世界だ。空美は背筋がゾクッとくる感覚にはっとした。寒さのせいだけじゃない気がする。  慌てて車に戻るとエンジンを掛ける。コンソールパネルが生き返り、組み込まれたナビシステムのディスプレイが白い光を放った。 ナビは初期画面に続いて現在地を示すはずである。だが、現在地はどことも知れない山の中だった。いくつか操作を試みるも反応はない。 「カンナちゃん、どうしちゃったの? 故障? そんなことないよねえ。」  空美は車を走行車線に戻した。とにかく行くしかない。と言うより、道は1本道なのだ、このまま進めばもうすぐ県道に出るはずだった。  空美はナビの停止した愛車を走らせた。左は山の斜面でその奥は鬱蒼と樹木が立ち並んでいる。右側はガードレールで、その先は深い深い谷であった。道は整備されており、すっかりハンドルさばきも慣れて山裾を右へ左へ自在に切りながらスピードも上がっていく。      「道を間違えた?」 空美が呟いた。あれからすでに1時間以上走っている。林道へ入ってから1時間半以上だ。だが間違えることはあり得なかった。道はずっと1本だったのだから。別れ道は一度もなかった。そんなに遠いはずはないのだが・・・。 「今更戻るわけにはいかないしね。行くわよ、カンナちゃん。」 空美は胸に湧き上がりつつあった不安を打ち消すように愛車に語りかけた。  闇の中をヘッドライトが照らす光の輪だけを頼りに空美は走り続けた。そしていつ頃からか妙な感覚に捉えられ始めていた。時刻は8時を過ぎている。峠道をぐるりと回って行ったとしてもホテルにそろそろ着く時間だった。だが、空美はまだ山の中を走っている。 「やっぱり、ここさっきも来たよねえ・・・。」   空美は愛車に語りかけるでもなく一人で呟いていた。短い直線を抜けると左へきついカーブを曲がる、そこには大きく垂れ下がった木の枝があって、それを掠めて今度は右へハンドルを切る。大きく迫り出した山裾の道を十数メートル行くとガードレールの前にミラーが立っており、暗い森を写していた。さっきもここを通った、空美は思った。  今度は長い山裾の緩いカーブ、真ん中辺りで1カ所ガードレールが外れ掛かっている箇所がある。そこを過ぎると左の森の木が2本倒れておりそれは交差してクロスのようになっていた。すると右への急カーブが出現し、すぐに左急カーブが来る。左カーブの手前、道路は闇の虚空へ続いているように見えるのだ。 「ここも、さっき通った。」 しかもそう感じるのはもう何回目なのか・・・。  同じ所を回っている? 錯覚だと分かっているはずだったが、それでも不安の雲は空美の胸を覆い尽くしていく。空美はアクセルから足を離して慌てて速度を落とした。 「いけない。事故るわ。」 空美は何とか冷静さを保とうと己を律した。  だが、闇の中を走る空美の目の端に白い影が映った時、空美は冷静さを失ってしまった。山の中、森の中に白い人型のような光る影を見たのだ。それは空美の方に手招きをしているようにも見えた。もちろん単に樹木が星明かりにぼーっと浮かび上がり、枝がそよ風に揺れただけだったかも知れない。  だけどもう空美は後ろを見ることが出来なかった。バックミラーを見ることが出来ない。怖い。何だか分からないが怖いと空美は感じていた。ミラーに映るかも知れない何かに怯えていた。ならば、前へ行くしかない。  それで、空美は更にアクセルを踏み込むと車の速度を上げる。何も考えていなかった。とにかく先へ行かなくては、その思いだけでクルマを進めていた。先へ、先へ。もう後ろなんか気にしていられない。      そして突然行く手の視界が開けた。道幅が急に広がり、小さな丘を越えるような感じでクルマはアスファルトの2車線道路へと出たのだ。道路には所々小さな街灯が立っており何台かの車が走り去った。 「出た。県道だ。」  空美はほっとすると同時に我を取り戻した。ナビを見ると、まさに新潟県県道666号線上に愛車はあった。 「直った・・・。」 いつの間にかナビが動き出していた。  時刻は10時になる少し前だ。林道に入ったのが6時とすれば4時間掛かったことになる。3、40キロは常に出ていたはずだから、いったい何キロ走ったんだろう。地図ではほんの30~40分の距離に見えたのだが・・・。  空美はそんな疑念を振り払って、今は考えないようにして、長岡へ向けて県道をひた走った。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加